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山南と鈴花が屯所を後にしてから数刻が経過していた。夜はすっかり明け、寒々とした冬空に太陽が燦々と瞬いている。
「では、そろそろ行きますか」
沖田はひとりごちると、ふたりを追うように屯所を出た。
名目上はふたりを追うこととなっているが、仮に見付けたとしても連れ戻すことはしない。
あくまでも〈見なかった〉ことにして、ふたりをそのまま無事に〈逃がす〉ことが沖田に与えられた任務である。
山南と鈴花を発見したのは、その日の昼下がりであった。
ふたりは追われている立場にも関わらず、異様にのんびりとした足取りで歩いている。
これには沖田も呆れた。
(これじゃあ、他の隊士にも見つかってしまうかもしれないじゃないか……)
沖田はそう思いつつ、辺りの気配を探る。
幸い、他の隊士らしい気配は全く感じられないが、用心に越したことはない。
事情を知っているのは近藤と土方、そして、永倉を始めとする上級幹部のみである。
それ以外の隊士は皆、山南総長は切腹を逃れたいがために、恋人の桜庭鈴花を道連れに脱走した、と思い込んでいる。
実際はそんなことは全くなかったのだが、真実を述べるわけにもいかない。
(どっちにしても、山南さんは他の隊士達の恨みを買ってしまうわけだ……)
ふたりの背中を遠巻きに見つめながら、沖田は微苦笑を浮かべた。
武士とは思えぬほど、いつも温かくて優しく、年の離れた兄のような存在であった山南。だからこそ、何も知らない連中に山南を悪く言われるのは堪え難い屈辱だ。
しかし、山南はそれも全て覚悟していたであろう。ただ、のうのうと生き続けることに躊躇いを感じていただけであり。
もし、鈴花がいなければ、昨晩の近藤の言葉には耳も貸さなかったであろう。
山南を突き動かしたもの。それは鈴花の存在に他ならない。
(そう、山南さんは幸せになるだけの資格があるんだ)
ふたりをしばらく見守ったあと、沖田はくるりと踵を返した。
沖田の役目はここで終わりだ。あとは建前として、取り逃がしてしまった、と報告するのみ。もちろん、そんな方便は近藤も土方も承知の上である。
「ふたりとも、お幸せに……」
沖田は一度立ち止まると、わずかに首を後ろに動かし、空気に溶け込んでしまいそうなほどの囁き声でふたりに餞の言葉を送った。
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しばらく歩いていたら、山南は強い気配を感じた。
(沖田君か?)
山南は瞬時に察したが、あえて気付かぬ振りを装い、なおかつわざと歩測を緩めた。
「山南さん?」
鈴花は怪訝そうに首を傾げている。
「どうしました? もしかして、疲れてしまったとか……?」
「いや、そうじゃないよ。――どうやら、追っ手が来たようでね」
「追っ手?」
鈴花が振り返ろうとするのを、山南は首を振って制止した。
「君は何も知らない振りをしていなさい。相手も、別に私達を連れ戻そうという気は全くないのだから」
「――なるほど。そういうことですか」
山南の言葉に、鈴花もやっと納得したようであった。
つまり、相手――沖田は形ばかりでも山南達を〈追って〉来たのである。
(まあ、他の隊士達の手前、そうせざるを得ないだろうからな)
屯所を出る前、近藤から〈脱走〉についての詳細を聞かされた時は、ずいぶんと大袈裟なことを、と呆れてしまったが。
とにかく、山南は沖田の気配を感じつつ、一定の速度で歩き続ける。
沖田もまた、着かず離れずといった感じで着いて来ている。
(これでは、まるで監視されているようだ)
沖田の無言の追跡に山南は苦笑した。
沖田がどこまで着いて来る気かは分らない。途中で引き返すかもしれないし、もしかしたら、同じ宿に一晩泊まってから戻ることも考えられる。
(沖田君と話せることはもうないだろうし、それもまたいいかもしれない)
山南は思いながら、さらに歩き続ける。
鈴花もまた、沖田が気になるようであったが、それでも必死で振り向くまいとしているのが分かった。
どれほど経ったであろうか。ふと、今まで感じていた沖田の気配が遠ざかっていた。どうやら引き返してしまったらしい。
(行ってしまったか……)
沖田がいなくなったことに、山南は安心するよりも一抹の淋しさを感じた。
これで、沖田とは二度と逢うことはない。
(最後にもう一度だけ、沖田君と飲みたかったが……)
そんなことを思っていたら、不意に隣から「山南さん」と呼ばれた。
「淋しい、ですか?」
鈴花に問われ、山南は小さく笑んで見せた。
「そうだね。考えを違えるようになってしまっても、大切な仲間に変わりないから。――特に沖田君は、本当の弟のように思っていたから、なおさら、ね」
「そっか……。確かに、山南さんの発明に一番積極的に興味を示していたのも沖田さんでしたしね。あの……、決闘の日だって……」
鈴花はそこまで言うと、慌てて口を噤んだ。
「――ご、ごめんなさい。つい……」
「いや、別にいいよ。鈴花の言う通り、私を気にかけてくれていたのは沖田君だったからね。もちろん、一番の理解者は君だと思っているけど」
山南は鈴花に向けてにこりと微笑むと、そっと彼女の手を取った。
寒空の中を長い間歩いていたからか、鈴花のほっそりとした手は冷たくなっている。
山南は自分の体温で温めるつもりで、さらに強く手を握り締めた。
「ふたりで幸せにならないとね」
山南が言うと、鈴花は花が咲いたようにぱっと明るく笑った。
「はい! うんと、幸せになりましょう!」
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厳しい冬も、あともう少しだけ。
冬が過ぎれば、必ず暖かな春が訪れる。
その春を信じて、ふたりは一歩、また一歩と踏み出して行く。
【初出:2009年9月28日】