いつの日か

服部武雄×桜庭鈴花


 あの時は、あまりにも近くにい過ぎて気付かなかった想い。
 でも、離れてしまって初めて、あの人の存在の大きさを思い知らされた。
 ただ、あの人に逢いたい。他には何も望みはしないから――

 ◆◇◆◇

 あの人が伊東さんと新選組を去ってから、一月が経過した。
 春らしい温かな陽気が続き、空も雲ひとつない晴天に恵まれている。
 晴れの天気は大好きだ。なのに、心の中は常に曇り空が広がっている。
 周りに心配をかけるのは心苦しいし、何より、私も女とはいえ新選組隊士のひとりなのだから、そんな自分の心の葛藤を押し殺しつつ、与えられた任務を遂行している。
 それでも、非番の時は気が緩むのか、自分でもぼんやりしていることが多くなってきたと思う。
 今日もそうだ。京の町中を歩いていれば、偶然でもあの人に逢えるかもしれない。そんな淡い想いを抱きながら、当てもなく歩き続ける。

 どれほど歩いただろうか。気が付くと、私は町中を外れ、人気のない裏通りへと足を踏み入れていた。普段であれば、ひとりでは絶対に近付きもしない場所だというのに――
 そんなことを思いながら、踵を返そうとした時だった。
「おいおい。こんな所に可愛い嬢ちゃんが何の用だい?」
 不快なお酒の臭いと共に、下司っぽさを感じさせる男の声が耳に飛び込んできた。
 私は眉を顰めながら、ゆっくりと振り返る。
 すると、どこから湧き出てきたのか、そこには浪人風の男がふたり、私の前に立ち塞がっていた。
 迂闊だった。ぼんやりしていたとはいえ、こんな低俗な男達の気配すら感じられなかったとは。
「何だこいつ。女のくせに一丁前に刀なんて差してやがるぜ!」
 最初に声をかけてきた男が、私の腰の大小を眺めながら鼻で笑っている。
 そんな男の傍らで、もうひとりの男が「あれ、こいつ……」と私に顔を近付けてきた。酒臭い息がまともに顔に当たり、不快さがさらに増す。
「お前、この女を知ってるのか?」
「ああ。こいつ確か新選組の女だぜ? あのど派手な隊服を着て歩き回っているのを何度か見たことがある」
「へえ……」
 私を新選組隊士だと分かった最初の男は、私を興味深げにまるで舐め回すように見つめてくる。
 咄嗟に危険を感じた私は、男達を睨みながら刀の柄を握った。
「何だ? 俺達とやろってのかい?」
 私の手元を見ながら最初の男がニヤニヤしながら言うと、もうひとりの男が声を上げて笑い出した。
「あっはははは……! たかが女のくせに立ち回るつもりとは、俺達もすっかり舐められたもんだわ!」
 柄を掴んだままの私を尻目に、男達はひたすら笑い続けている。
「馬鹿にしないで!」
 私の苛立ちは頂点に達した。無我夢中で抜刀すると、私は最初に笑った男の二の腕に傷を負わせた。
「なっ……」
 私の行動がよほど予想外のことだったのか、男は斬られた二の腕をもう片方の手で触り、そこに付着した血を改めて見つめて震えている。
 そんな彼を眺めながら、私は静かに言った。
「私はそんじょそこらの女とは違うわ。新選組の中では、男の人たちと同様の稽古と経験を積んできたんだもの。さあ、これ以上痛い目に遭いたくないならこの場を黙って立ち去った方がいいわよ? ――私も、あまり人を斬るのは好まないから……」
「――甘っちょろいことを言ってんじゃねえよ!」
 私の精いっぱいの慈悲は、このふたりには全く通用しなかった。かえって逆上させてしまったらしく、もうひとりの男が私に斬りかかって来る。
 私は何とか避けようとするものの、無闇に振り下ろされる剣先は全く見えない。しかも、相手は酔っ払っているため、目が完全に据わっている。
「うおおーっ!」
 獣じみた雄叫びと共に、男が剣を振り下ろす。
 私は辛うじてそれを自分の刀で抑えたが、男の力はやはり、女の私では敵わない。ギリギリと重圧をかけられ、振り払おうにも振り払えない。
「くっ……」
 私が歯を食い縛り、それに必死で堪えていると、今度は斬られた男が私に迫って来た。
「多勢に無勢、だな!」
 斬られた男はニヤリと不敵な笑みを浮かべると、怪我をしていない方で自らの刀を抜いた。
 私は目を閉じた。もう、駄目かもしれない。そう覚悟をした、まさにその時だった。
「ぐああっ!」
 突然、その男から断末魔の叫びとも取れる声が聴こえてきた。同時に、刀を交えていたはずの男の力も緩んだ。
 何が起こったのか。私は状況を確認するため、目を開いた。
 地面には、着物を赤黒い血で染めた男が倒れている。
「まさか、死んで……」
「いや、急所は外したから大丈夫だろう」
 私の言葉に、懐かしさを感じさせる声が答える。
 私ははっと顔を上げた。
「まさか、こんな所で逢うとは思わなかったよ、桜庭さん」
 声の主は私と目が合うなり、口許に小さな笑みを浮かべた。
 私は目を見開いたまま、呆然とした。
 夢でも見ているのだろうか。そう思い、一度目を閉じ再び開いてみる。――やはり、確かにその場にいる。
「――服部さん……」
 私はやっとの思いで、その人の名を口にした。
「どうして、ここに……?」
 私が訊ねると、服部さんは「たまたまだよ」と答えた。
「こっちにちょっと用事があったからね。そしたら、君が男ふたりを相手に立ち回ってる所を目撃してしまった」
 服部さんはそう言うと、私に苦笑して見せた。
「それにしても、こんな酔いどれの相手をするなんて桜庭さんも無茶をし過ぎだ。確かに君は剣の腕は立つが、そういった過信は命取りになりかねない」
「――すみません……」
 服部さんからの予想外の言葉に、私もさすがに項垂れてしまった。口調が優しいだけに、よけいに重みを感じてしまう。
「分かってくれればいいんだよ」
 服部さんは私の頭を優しく撫でると、今度は先ほどの男達に向かって、「さて」と口を開いた。
「俺は無駄な殺生は嫌いだ。直ちにここを立ち去るがいい。だが、これ以上、彼女を傷付けようとするのであれば、君達にはそれ相応の報いを受けてもらわねばならないが?」
「――わ、分かったよ! 行きゃあいいんだろっ?」
 斬られなかった男は服部さんに根負けしてしまったのか、倒れている男を重そうに引き摺りながらこの場を離れて行った。
 斬られた男の血が残っている場所で、私は服部さんとふたりきりになってしまった。状況的に喜んで良いわけがないが、やはり、逢いたいと切望していた人とこうして再会出来たのだから、嬉しいと想わずにいられない。
「元気だった?」
 男達の姿が完全に見えなくなってから、服部さんが私に訊ねてきた。
 私は、「はい」と頷くと、服部さんは満足気ににっこりと微笑んだ。
「確かに桜庭さんはそこいらの男達よりも芯が強いからね。でも、さっきも言ったが、くれぐれも無茶はしないようにしないといけないよ? さっきも男達に囲まれている君を見付けた時は、俺もさすがに焦ってしまったからね」
 そう私に告げた服部さんの表情が、少しだけ哀しげに歪んだように見えた。しかし、それはほんの一瞬のことで、いつもの穏やかな表情に戻っていた。
「ほら、そろそろここから去ろう。桜庭さん、もう刀を収めなさい」
 服部さんに言われ、私は刀を抜き身の状態で持っていたことを改めて想い出し、急いで刀を鞘に戻した。
「じゃあ、行こうか?」
 刀を収めたのを見届けてから、服部さんは私を促して歩き出す。
 私も隣に並んだ。
「――桜庭さん」
 ゆったりとした足取りで元来た道を戻りながら、服部さんは私の名を口にした。
「君は、これからもずっと、新選組にいるつもりなのかい?」
「え……?」
 服部さんの言わんとしていることが理解出来ず、私は小さく口を開けたまま瞠目した。
 そんな私を、服部さんは優しい眼差しで見つめてくる。
「こんなことを言ったら君は気分を害してしまうかもしれないが、俺はね、これ以上、桜庭さんには穢れた血に染められてほしくないと思っているんだよ。俺は確かに他の新選組の古参幹部達に比べたら、君との付き合いは短い。しかし、君が本当はどれほど女性らしい綺麗な心を持っているかは、俺だってよく分かっているつもりだ」
 服部さんはそこまで言うと、私の手をそっと取った。長年、刀を握り続けてきた、無骨だけど温かくて大きな手。手を通して、服部さんの優しい温もりを感じ、私の心にも春の陽気が戻ってきたように思えた。
「服部さん」
 高鳴っている鼓動を感じつつ、私は服部さんに訊ねた。
「服部さんは今、幸せですか?」
「うん、幸せだね」
 服部さんはにっこりと頷いた。
「でも、真の幸せは、桜庭さんとこうしていられる時間かな? まあ、本来であれば、君と俺は相容れてはならない関係なのだけどね……」
「――ええ……」
 服部さんの言葉に、私は小さく答える。
 確かに、伊東さんや服部さんたちの新選組離脱は穏やかなものだったが、それも、条件があってのことだった。
 もし、私達がこうして一緒に歩いている姿を、例えば、大石さん辺りに目撃されたとしたらどうなるであろう。
 これが醒めない夢であればいいのに、と不意に思いながら、服部さんの手を更に強く握ってしまう。
 そんな私を、服部さんはどう思っているのだろう。服部さんの表情を覗おうとするが、服部さんは先ほどと変わらぬ穏やかな笑みを浮かべているだけだった。

 表通りに出たと同時に、私達はどちらからともなく手を離した。
 まだ残っている服部さんの温もりに、私の手は、淋しい、と訴え続けている。
「生きてさえいれば、また逢えるから」
 別れ際、服部さんはそう私に言ってくれた。
「そうですね」
 私も精いっぱいの笑顔を服部さんに向ける。
 落ち込んでばかりはいられない。服部さんも私も、これから先、各々の進むべき道を歩んでゆかねばならないのだ。私はそう自分に言い聞かせた。
「それじゃあ」
 服部さんは小さく笑みを浮かべながら、私に背を向けた。
 広い背中は、少しずつ私から遠ざかって行く。
 私はそれを見えなくなるまで見送ると、心の中で、また、いつの日か、と服部さんに告げ、自分の帰るべき場所へと戻った。

【初出:2009年4月14日】
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