壬生界隈にも春が訪れていた。満開とは言いがたいものの、何十年もの歳月を経た桜の木には淡い花がぽつぽつと咲き始めている。
斎藤はそれを見つめながら、ひとりの少女の笑顔を想い描いていた。
人斬り集団の男達の中にいても必死に歯を食い縛り、人一倍の根性を見せる。
そう、まるで――
「斎藤さん」
透明感のある声で名前を呼ばれた。
斎藤ははっと我に返る。人の気配を感じ取れぬほど桜に魅入っていたらしい。
わずかに動揺をしていたものの、それを悟られまいと平静を装いながら後ろを振り返る。
「探しましたよ。まさか、ここにいるとは思いませんでしたけど」
声の主である鈴花は、にっこりと微笑みながら斎藤を見つめていた。
「――その言い方、俺には桜が似合わんと言われているようだが……」
「そんなこと思ってませんよ」
皮肉めいた斎藤の言い回しにも、鈴花は全く動じていない。
だが、そんな鈴花も最初の頃は、斎藤に対してあからさまに距離を置いていた。他の隊士達と違って無口で無愛想なせいだろう。おまけに人嫌いだとも思われていたらしい。
これを知った時は複雑な気持ちだったが、今さら性格を直せるわけでもない。
しかし、鈴花も斎藤の人となりを知ってからは他の隊士達と分け隔てなく接してくれるようになった。
「斎藤さん、桜を見ながら何を考えてたんですか?」
真っ直ぐな瞳で鈴花が訊ねてきた。
「――俺の考えてることにそんなに興味があるのか?」
「はい」
正直な鈴花の反応に思わず口許が綻ぶ。
他の者に全く同じ反応を示されると気分が悪いが、何故か鈴花ならば許せる。これも愛ゆえなのだろうか。
「――仕方ないな」
斎藤はそう前置きすると、ゆっくりと話し始めた。
「この桜を、ある者と重ね合わせていた。美しくて優しいのに、力強さもあると。雨の日も、風の日も、雪の日も、ただ、もの言わずに立ち続けている。その者も桜と同じ。苛酷な環境にいながら、それでも泣き言一つ言わない。正直驚いたよ。――ここまで根性のある奴、男でもそうはいないからな」
「えっ、それって……」
鈴花は目を大きく開く。
斎藤はほんのりと笑みを湛えながら、鈴花の頬をそっと撫でた。
「そうだ。俺はこの桜にお前という面影を見ていた」
そう言うと、斎藤は鈴花を自分の元へと引き寄せた。
柔らかな温もり。そして、ほんのりと香る甘い匂い。甘い物は苦手な斎藤だが、この甘さは決して悪くないと思っていた。
(絶対、放すものか……)
鈴花が消えてしまわぬようにと願いを籠めながら、強く抱き締める。
「――さ、斎藤さん……」
突然の抱擁に戸惑っているのか、鈴花は斎藤から逃れようと身体を動かす。
しかし、斎藤は開放するどころか腕の力を強めてゆく。
「少し大人しくしてろ」
「で、でも……」
「いいから。今は、鈴花だけを感じていたいから……」
斎藤が耳元で囁くと、鈴花の動きはぴたりと止んだ。
鈴花は何を思っているのだろう。ただ、斎藤の中で石のように固まっている。
しばらくして、斎藤は腕の力を弱めた。
開放された鈴花は身体を離すなり、何度も深呼吸する。
「びっくりしました」
楓は斎藤を見上げた。
「まさか、抱き締められるなんて思ってもみませんでしたから……。まあ、斎藤さんの行動はいつも予想が全く付きませんけどね」
そこまで言うと、鈴花は困ったように微苦笑を浮かべた。
「――すまない……」
「構いませんよ。それも斎藤さんの個性ですもん。優しいところも、ちょっと強引なところも全部含めて、私は斎藤さんが好きですから」
さらりと言われ、斎藤は一瞬、そのまま聞き流しそうになった。
「――おい」
「何ですか?」
「お前、今、何と言った?」
聞き違いかも知れない。そう思った斎藤は、改めて質問した。
「――訊き返すなんて……。女の私に恥をかかせる気ですか?」
「そ、そんなつもりでは、ないが……」
鈴花の言葉に、斎藤はうろたえる。
その姿を面白そうに眺めながら、鈴花は「じゃあ、もう一度だけ言いますよ?」と念を押した。
「私は、斎藤さんの全てが好きです」
思いもよらなかった鈴花の想い。いや、他の隊士達よりは近い存在であったであろう自覚は多少なりともあった。だが、こうして改めて聞くまでは自信が持てなかった。
だからこそ、鈴花を独占したかった。抱き締めてしまえば、自分以外は見えなくなるだろうと。
(何て愚かな……)
斎藤はひっそりと自嘲した。強引な手を使わずとも、鈴花は最初から斎藤を見てくれていたのだ。
その時、斎藤の髪に鈴花の手が触れた。
「ふふっ、花びらが付いてましたよ」
鈴花はそう言って、細い指で摘んだ花びらを見せながら柔らかく微笑んだ。
その姿を見ていたら、また抱き締めたい衝動に駆られたが、どうにか気持ちを抑えた。
(あまりしつこいと、今度こそ本当に嫌われかねないからな……)
そんなことを思いながら、斎藤もまた、鈴花に答えるように微笑を浮かべる。
「ねえ、斎藤さん」
「何だ?」
澄んだ瞳を向けながら、鈴花は言った。
「桜が満開になったら、また、一緒にここへ来ましょうね? そして、来年も、再来年も、ずっと……」
「ああ、そうだな」
ふたりは同時に桜を見上げた。
満開になるまでは、あと数日だろうか。その頃にはきっと、薄桃色の花びらが風に乗って舞い続けることだろう。
◆◇◆◇
この桜を見るために、そして何より幸せになるために、ずっと一緒に生き続けよう。
どんな困難にも負けぬよう――
【初出:2008年3月26日】