このところ、鈴花は眠れない日々が続いていた。その原因は、つい数日前の出来事――
あの日、鈴花は斎藤と巡察に出ていた。いつものように市中を見廻っていたのだが、突然、斎藤は全く違う場所へ向かい始めた。
鈴花は不思議に思いながらも、彼の後を追った。
気が付くと、町からどんどん離れ、人気のない竹薮へと入っていくと、斎藤はぴたりと足を止めた。そして、鈴花を自分の元へ引き寄せ、そのまま唇を奪った。
初めて異性と触れ合った瞬間だった。
鈴花も斎藤を愛していたから、嬉しくなかったと言えば嘘になる。しかし、物事には順番というものがある。
あまりに突拍子もない行動に、鈴花はその時に乙女心を学んで欲しいと訴えた。
その言葉を、斎藤も納得してくれた。そして、全てが終わったら必ず返事をすると、鈴花は約束した。
鈴花は布団の中で何度も寝返りを打つ。
力強く逞しい斎藤の両腕と唇の感触。忘れようと思えば思うほど、どうしても頭から離れない。
「ああもう!」
鈴花は勢いよく起き上がった。
(少し、外の空気でも吸って来よう……)
鈴花は布団から這い出し、着替えた。
外に出ると、ひんやりとした空気が身体に纏わり付いてきた。
鈴花は自分の身体を抱き締めるように両腕を交差させる。
静まり返った深夜の庭。どことなく侘しさを感させる。
(誰もいるはずが……、えっ?)
鈴花の視線が、ある一点の所で止まった。暗がりでよく見えないが、少し離れた場所にぼんやりと人影があった。
(誰だろう……?)
鈴花は恐る恐る近付いたが、その正体を知った瞬間、彼女は思わず声を上げてしまった。
「さ、斎藤さんっ?」
「桜庭か?」
そこにいたのは、眠れぬ元凶を作ってくれた斎藤だった。
「こんな所でいった何をしているんですか?」
「お前こそ、こんな夜中に物騒じゃないのか?」
こちらが質問しているのに逆に問い返された。
「わ、私はただ、眠れないから外の空気でも吸おうと思っただけです。斎藤さんこそ、何をしているんですか?」
斎藤の問いに答えてから、鈴花は再度訊き返した。
「ああ、俺も眠れなくてな。何となく外に出てみた」
斎藤は答えると、しばらく黙ってしまった。
鈴花は気まずさを感じながらも、斎藤の隣で立っていた。
「――あの時は」
ふと、斎藤が口を開いた。
鈴花は弾かれるように顔を上げる。
「すまなかった。いくら抑えられなかったとはいえ、お前の気持ちも考えずにあんなことをしてしまって。勝手な事を言っているのは分かっている。桜庭、どうか許してくれないか?」
わずかに斎藤は哀しげに表情を歪めている。
そんな顔を見せられると、鈴花の方が辛くなってくる。
「斎藤さん」
斎藤を安心させようと、鈴花は笑顔を向けた。
「私は全然怒ってなんかいませんよ。確かにあの時はびっくりしてしまいましたけど、あなたの気持ちを知ることが出来て嬉しかったですから。でも、これからは絶対不意打ちはなしですよ?」
鈴花の言葉に安堵したのか、斎藤は微笑を浮かべた。
「ああ、二度としないと誓おう。お前に嫌われてしまうことほど辛いことはないからな」
斎藤はそう言って、鈴花の髪にそっと触れる。
鈴花は一瞬驚いたが、嫌な気持ちは全くなく、むしろ心地良さを感じていた。
「あ、もうひとつ」
鈴花は真っ直ぐな視線を斎藤に向けた。
「必ず最後まで生き抜きましょうね。じゃないと、この間のお返事が出来なくなってしまいますから」
鈴花が言うと、斎藤はさらに優しい笑みを零した。
「そうだな。お前から返事をもらえるまで、俺は絶対死んだりしない」
【初出:2007年2月14日】