夕刻、鈴花が庭の前を通り過ぎようとした時、ひとりの男の姿を目にした。
彼は何を想っているのだろう。ただ、ぼんやりと空を仰いでいる。
無意識のうちに、鈴花の足はそこへ向かっていた。
足音を消し、一歩、また一歩と近付く。そして、彼の背中まであと少しという時――
「それで気配を消してるつもりか?」
背を向けたまま、男は呆れたような口調で訊ねる。
鈴花の心臓は一気に跳ね上がった。確かに気配を消したつもりだった。気付かれない自信もあったのだが。
「――いつから分かってたんですか……?」
深呼吸して動悸を落ち着かせてから、鈴花は改めて男に訊き返した。
男はゆっくりとこちらを振り返る。
「お前がここを通り過ぎようとしていた時からだ。本当は気付かない振りでもしておこうかとも思ったが……」
しれっと答える彼に鈴花は恨めしさを感じ、上目遣いで軽く睨んだ。
「だったら急に声をかけたりしないで下さい。逆にこっちがびっくりしましたよ、斎藤さん……」
「――そうか。すまなかったな」
男――斎藤は素直に謝罪を口にする。
真面目な彼のことだ。脅かしてしまったことを心から申し訳なく思ったのだろう。
そんな彼を見ていたら、少し可哀想な気持ちになる。少なくとも、悪戯を仕掛けようとしたのは鈴花の方なのだ。
「――ごめんなさい……」
今度は逆に鈴花が頭を下げた。
「何故、桜庭が謝るんだ……?」
斎藤は不思議そうに首を捻る。
「だって……、やっぱり私が悪いですから……」
気まずさを感じ、斎藤から目を逸らしながら鈴花は答えた。
暫しの間、沈黙が流れる。
「――全く……」
ふと、斎藤がぽつりと呟いた。
「お前は本当に変な女だな。怒ったかと思えば、突然、手の平を返したように謝ってくる」
そう言うと、彼は優しく鈴花の髪に触れた。
大きくて温かな手の平。鎮まったはずの動悸が再び速度を上げた。
「どうした?」
斎藤の顔が急に近くに現れた。
お互いの息がかかりそうなほどの至近距離に、鈴花は目を見開いて後ずさった。
「びび、びっくりさせないで下さい!」
その時、斎藤の表情に翳りが見えた。
だが、それも一瞬のことだったから、気のせいかも知れないと思い直そうとしたのだが。
「――お前は、そんなに俺が嫌いか?」
思いもよらぬ質問を投げかけられた。
鈴花は目を見開いたまま、その場に硬直した。
(ど、どう答えたら……)
必死で言葉を探すも、何ひとつ浮かんでこない。
そんな彼女をよそに、斎藤は続けた。
「俺はずっと、桜庭が好きだった。それはお前も知ってるはずだ。だが、お前が迷惑だと言うのならば、俺は黙って身を引くつもりだ。――すまなかったな……」
斎藤はそう言うと、鈴花に背を向ける。
(えっ……!)
同時に、鈴花の身体が勝手に動いていた。絶対に逃がすまいと、背中越しに彼に抱き付く。
斎藤の動きが止まった。
「――斎藤さん……」
彼の温もりを確かめながら、鈴花は小さく告げる。
「私は、迷惑だなんてこれっぽちも思ってません。私だって、ずっと……」
彼女がそこまで言いかけた時、斎藤に絡められていた細い両腕がそっと解かれる。
再び斎藤が鈴花に振り向いてきた。
いつもと変わらぬ無表情のように見えたが、右だけ露になっている瞳は鈴花に優しい眼差しを注いでくる。
「ずっと、どうだったんだ?」
真っ直ぐに斎藤が訊ねる。
やはり、彼の瞳をまともに見るとなかなか上手く伝えられない。
鈴花は瞳を逸らし、一瞬考えた。
「――少しだけ、目を閉じていてくれませんか?」
「――何故だ?」
「私からのお願いです。いいですか? 私が『いい』と言うまで絶対に目を開けないで下さい」
鈴花の言葉に斎藤は怪訝そうにしていたが、素直に従ってくれた。どんなものも見透かしてしまいそうな漆黒の瞳は、ゆっくりと閉じられる。
それを確認した鈴花は、斎藤にそっと近付く。そして、精いっぱい背伸びをして、斎藤の唇に自分のそれを重ね合わせた。
相当驚いたのだろう。まだ、『開けていい』と告げていないのに、斎藤の瞳はギョッとしたように見開かれていた。
鈴花は唇を離した。
「駄目じゃないですか。まだ私は何も言ってないのに……」
「――す、すまん……」
心なしか、斎藤が動揺しているように見える。普段が落ち着いているだけに、その反応は可愛く映った。
「しかし、不意打ちはないだろう? さすがの俺も、今のは……」
「――でも、斎藤さんも以前、私に同じようなことをしませんでしたか? むしろ、私よりもっと強引だったはずですけど?」
「そ、それはだな……」
ちょっと前のことを蒸し返され、答えに窮している。
「――仕方ないな……」
しばらくして、斎藤が口を開いた。
「俺もやられっ放しでは面白くない。だから……」
そう言うと、彼は唐突に鈴花を自分の元へ引き寄せる。華奢な身体を抱き締めながら、今度は彼の方から唇を重ねてきた。最初は触れるだけのそれも、次第に深さを増してゆく。
あの時と同じだった。長くて、気が遠くなりそうなほどの口付け。
さすがに抵抗を感じた。だが、次第に心地良さを感じ、気が付くと鈴花の方から彼を求めていた。
どれほど接吻を重ねただろう。どちらからともなく唇が離された。
「――鈴花……」
彼女を抱き締めたまま、斎藤が耳元で囁く。
「約束、してくれないか? これからもずっと俺だけを見てると……」
「――もちろんですよ」
鈴花もまた、斎藤を抱き締め返しながら言った。
「私はあなただけを見つめ続けていますよ。今も、これからも……。だから、斎藤さんも私だけを想っていて下さいね」
「ああ、約束しよう」
朱に染められた陽が、少しずつ傾いてゆく。
互いを確かめ合うように、ふたりはまた唇を重ね合った。
【初出:2008年3月16日】