五月雨慕情

沖田総司×桜庭鈴花+土方歳三


 桜もすっかり散り失せ、それと入れ替わるように青々と繁った葉が庭を覆い尽くしていた。
 昼間はもう汗ばむほどの暑さ。それでも、日が落ち、辺りに暗闇が押し寄せてくると、ひんやりとした空気が身体に纏わり付く。
(沖田さんに残された時間は、あとどれほどなんだろう……)
 行灯が灯る部屋の中で、鈴花は不意にそんなことを思う。
 そのすぐ側では、布団に横たわった沖田が規則正しい寝息を立てながら眠っている。
 池田屋事件で倒れて以来、寝たり起きたりを繰り返している沖田。弱音を吐く事が嫌いな彼は、常に「大丈夫ですよ」と笑顔を振り撒いていたが、相当無理をしているというのは誰の目から見ても明白だった。
 そして、鈴花の目の前にいる現在の沖田総司。
 灯りに照らされた顔は青白く、頬の肉もすっかり削げ落ちてしまっている。
 楽しそうに剣を振り、幼い子供と混ざり合って元気に駆けずり回っていた彼を懐かしく想い出すと、涙が零れ落ちた。
 その時、背中越しに障子の開けられる音が聴こえた。
 鈴花は慌てて頬を伝った涙を手で拭い、ゆっくりと振り返った。
「総司はどうだ?」
 そう訊ねてきたのは、土方だった。
「はい、今のところは落ち着いてます。おかゆも召し上がりましたので……」
「そうか」
 鈴花の言葉に心底安堵したようで、土方は小さく口許を綻ばせた。そして、彼女の隣に腰を下ろし、そのまま胡座をかいた。
「土方さん」
 眠り続ける沖田に視線を落としながら、鈴花は土方に訊ねた。
「新選組はこの先、どうなるんでしょうか……?」
「どうなる、か……」
 土方もまた、沖田を見つめている。顎を擦り、眉間に皺を寄せながらぽつりと口を開く。
「新政府軍との戦力の差は明らかだからな。はっきり言って勝ち目などないだろう。だが、俺はそれでも戦う。無念の死を遂げた近藤さんのためにも。――そして、志半ばで散った者達のためにも……」
 鈴花は何も答えなかった。ただ、彼女の脳裏には、多くの仲間の面影が次々と浮かんでは消えゆく。
 特に近藤の死は、鈴花だけでなく、冷静な土方さえも動揺させた。最期は自刃さえ許されず、斬首というあまりにも不名誉な形で生涯の幕を降ろされてしまったらしい。
(人の命は、なんて儚いんだろう……)
 再び、瞳から熱いものが込み上げてきた。堪えようにも、泉のように湧き出る涙。
「……っ……うう……っ……」
 鈴花が泣いている横で、土方は無表情のまま、相変わらず沖田を見ている。いや、実際は全く違うものを見ているのかもしれない。
「――どうしたん、ですか……?」
 ふと、鈴花の耳に弱々しい声が飛び込んできた。
 鈴花ははっとして、声の聴こえた方に視線を移す。
「何か哀しいことでもありましたか……?」
 声の主である沖田は、布団に横になったままで鈴花の頬に手を伸ばす。涙を拭おうとしてくれているようだ。
「大丈夫ですよ。何でもありませんから」
 沖田の優しい心遣いが嬉しくて、自然と顔が綻ぶ。
「そうですか。――あれ、土方さんも来てくれたのですか?」
「ああ」
「なんだ……。それならもっと、早くに起こしてくれたら良かったのに……」
 不満げに呟く沖田に対し、土方は苦笑している。
「まあ、起きてくれてかえって良かったかもな。実はここへ来たのは、お前達に別れを言うためだった……」
 土方の突然の言葉に、鈴花は目を見開く。
 沖田も全く同じ表情をしている。
 別れなんて、いったい何を言い出すのか。
「そんな顔をするな」
 土方はまた、困ったような笑みを浮かべている。
「別に、今生の別れを告げるつもりはない。ただ、しばらくの間、江戸を離れるだけだ。だが、いつまた戻れるかは分からない。だからせめて、今のうちに総司と桜庭の顔を見ておこうと、そう思っただけだ」
「――そうですか……」
 そう呟く沖田の表情は、しかし相変わらず沈んでいた。
 鈴花も同じだった。
 勝利など微塵も見えない戦い。土方はすでに、戦場に散る覚悟をしているのだ。
 その時、沖田の手が土方の手を握っていた。強く、強く。まるで、「生きろ」と訴えかけているかのように。
「土方さん」
 鈴花は真っ直ぐに、土方を見つめた。
「全てが終わったら、また、江戸へ帰って来て下さい」
 沖田の気持ちを代弁するように、鈴花は言った。
 ふたりの願いは土方の心に届いたのだろうか。土方は心底嬉しそうに微笑んだ。
「ありがとう。――必ず、戻って来よう」
 そう告げる土方の表情は、澄みきった空のように晴れ晴れとしていた。

 ◆◇◆◇

 土方が江戸を発ってから幾日か経過した。
 梅雨に入ったのか、連日のように雨が降り続いている。
 沖田の病状は悪化の一途を辿っている。
 せめて自分だけはと、鈴花は気丈に振舞うものの、本心は目を逸らしたいほど辛い気持ちでいっぱいだった。
 一日が過ぎてゆくのが怖い――
 そう思っているのは、沖田も鈴花も同じだった。
「――桜庭さん……」
 首をわずかに動かし、沖田は枕元に正座している鈴花を見上げた。
「雨、止みませんね……」
「そうですね……」
 そこで会話が途切れた。静寂に包まれた部屋の中には、さあさあと降る雨音だけが耳朶に響く。
 空は何を想っているのだろう。余命いくばくもない沖田を憐れんでいるのか。それとも――
 と、その時だった。
 沖田が鈴花の両手を、彼のそれで包み込んできた。強く握っているつもりなのだろうが、切なくなるほど力がない。
 また、泣きたい気持ちになる。だが、決して涙を見せてはいけない。
「桜庭さん……」
 囁くように、沖田が鈴花を呼んだ。
「はい」
「もう少し、僕の側に寄ってくれませんか……?」
 鈴花は首を傾げつつ、それでも沖田の言葉に従った。ゆっくりと、沖田に顔を近付ける。
 沖田の手が、鈴花の手から頬へと伸びた。その輪郭をなぞるように、微かに震える指先を動かしている。
 鈴花の胸の鼓動が高鳴った。愛おしい気持ちが込み上げてくる。
 気付くと、どちらからともなく唇を重ね合わせていた。ただ、触れ合うだけの口付け。それだけでも、鈴花は充分過ぎるほど幸せだった。
(ずっと、あなたと共に……)
 祈りを籠めるように、鈴花は沖田を想った。

【初出:2008年10月20日】
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