立春もとうに過ぎた、ある日の昼下がり。桜色の着物を纏ったひとりの少女が、数本の花を大切そうに胸に抱きながら寒空の下をゆったりとした足取りで歩いている。
少女の名は桜庭鈴花。
昨年のちょうど今頃までは、新選組という剣客集団の中で、唯一の女性隊士として剣を振るっていた。
女ながら、剣で身を立てる事を夢見続けていた鈴花。
しかし、今ではその剣を捨て、全く別の道を歩んでいる。
鈴花はあるひとりの男性と出逢ってから、剣を持つことが全てではないのだと心から思えるようになった。
しばらくして、鈴花は寺の前まで来た。
鈴花は躊躇いもせず境内へと足を踏み入れると、真っ直ぐに墓地へと向かった。
鈴花はひっそりと佇む墓石の前で立ち止まり、持ってきた花を供える。そして、今度は墓の前でそっと手を合わせると、鈴花は昨年までのことを想い出していた。
◆◇◆◇
新選組総長であった山南敬助と始めて出逢ったのは、新選組の先駆けとなった壬生浪士組に入隊した頃だった。
男ばかりの中で毎日不安ばかりを募らせていた鈴花に、山南は常に気を配り、温かく見守ってくれた。
女として扱われるのは嫌だ、と口では言っていても、心のどこかでは女として見てもらえないのは辛く感じていたのも事実であった。
山南は、それを一番に理解していた。芹沢粛清の時も、鈴花を巻き込むことは望んでいなかったと、のちに聞かされた。
そんな彼だからこそ、壬生界隈の子供達はもちろん、隊士達にも慕われていた。
子供と言えば、山南は生前、子供達のための塾を開設した。
きっかけは、土方から鈴花に、山南の危険な発明を何としても止めろ、と命令され、その後で偶然にも寺の境内で子供達に勉強を教えている山南を目撃したからだった。
子供達に物を教えている山南の瞳は希望に満ち溢れ、見ている鈴花も胸が躍るような気持ちになったほどだった。
塾の話を勧めた時は、山南は一瞬躊躇したものの、それでも鈴花が彼の助手をするという条件付きで快諾してくれた。
その後の山南は、とても生き生きとしていた。芹沢粛清以来、沈みがちになっていた山南だったが、子供達と共に過ごしている間は本当に楽しそうにしていた。
鈴花はそんな山南を見るたび、塾の講師を勧めて良かったと心から想えた。
◆◇◆◇
ある日の晩、鈴花は山南の部屋で子供達の宿題の添削をしていた。
「桜庭君、疲れただろう? 少し休もうか?」
作業の手を止め、山南が言った。
鈴花は「はい」と頷くと、静かに立ち上がった。
「では、お茶でも淹れましょうか?」
「いや、構わないよ。それよりも、私は君に訊きたいことがあるんだが、いいかい?」
山南に訊かれ、鈴花は首を傾げた。
「訊きたいこと、ですか?」
「ああ」
山南は短く答えた。
「いいですけど……。何を訊きたいんですか?」
鈴花が訊ね返すと、山南は彼女を真っ直ぐに見つめた。
「君は入隊当初、剣で身を立てたい、と言っていたよね? それは今でも変わっていないのかな?」
急に何を訊いてくるのか。
鈴花が驚いて目を見開いていると、山南はゆったりとした口調で続けた。
「正直に言うと、私は、君にこのまま剣の道を進んでほしくないと思っているんだよ。もちろん、そんなのは私の勝手な押し付けでしかないというのは分かっているが……。しかし、君は新選組隊士である以前に、ひとりの女性だ。出来ることなら、これ以上、君の手を血で染めてほしくなどない……」
そこまで言うと山南は、鈴花の両手を自らのそれでそっと包み込んだ。
直に伝わってくる山南の温もり。嬉しいはずなのに、半面で、山南がどこか遠くへ行ってしまうのではないかという不安に襲われる。
「山南さん……、私から、離れないで……」
鈴花が口にすると、瞳から、幾筋もの涙が零れ落ちる。
山南はそれを黙って見つめていたが、やがて、鈴花から手を離し、今度は彼女の身体を抱き締めた。
「――鈴花」
名前を優しく囁かれると、耳元に山南の吐息がかかる。
「私は、ずっと君の側にいよう。たとえこの身が朽ち果てたとしても、君をずっと見守り、幸せを願っている」
「――そんなこと……、私は、望んで……、なんかいません……」
山南の胸に抱かれている鈴花は、嗚咽を漏らしながらも続けた。
「――山南さんが、いなければ……、こうしていつも、私を抱き締めてくれなければ……、私は、幸せになんてなれないんです……。山南さんが笑ってくれるのなら、私は……、どんなこと、でも……」
鈴花はこれ以上、言葉を紡ぐことが出来なかった。
山南の胸があまりにも広くて、抱き締める腕があまりにも優し過ぎて、鈴花の胸を強く締め付ける。
山南は身体を離した。未だ頬を涙で濡らしている鈴花の顎に手を添えると、顔をわずかに仰向かせる。
鈴花はゆっくりと瞳を閉じる。
山南は、その唇に躊躇いがちに口付けた。最初は触れるだけのそれも、しだいに深さを増してゆき、鈴花の意識を朦朧とさせた。
しばらくして、どちらからともなく唇が離れた。
「鈴花」
柔らかく笑みながら、山南が言った。
「私は、私なりの理想がある。それは、近藤さんや土方君達とは相反することであるのは否めない。しかし、子供達と接していくうちに、自分を偽り続けることに限界を感じてしまった。私は、これからは、自分の信ずる道を突き進んで行く決心だ」
山南はそこまで言うと、涙の痕が残る鈴花の頬に触れた。
「わがままを言うようだが、鈴花、どうか、君にも私と同じ道を進んでほしい。君がいれば、私は、どんな困難も乗り越えられる」
「――私で、いいんですか……?」
鈴花が訊ねると、山南は「もちろんだよ」と頷いた。
「今、私が望んでいるのは君だけだ。――一緒に、いてくれるね?」
「――私で、良いのなら」
山南の言葉に、鈴花は微笑みながら頷く。
「ありがとう、鈴花」
山南は再び、鈴花を自らの元へと引き寄せると、癖のある彼女の髪に顔を埋める。
まるで、鈴花という存在を慈しむかのように――
◆◇◆◇
鈴花は瞳を開けると、頭をわずかにもたげ、合わせていた両手を離した。
「山南さん」
墓に向かい、鈴花は言った。
「あなたは、最期まで自分の信念を貫き通そうとしていました。でも、新選組のみんなを本当に好きだったからこそ、苦しい想いもしたのですよね……? 山南さんの選んだ道が正しかったのかどうかは分かりません。でもせめて、あなたのなしえなかった理想を私が実現させます。あの日の山南さんとの約束こそ、今の私の〈誠〉なのですから」
そこまで言うと、鈴花は墓に背を向けた。と、その時であった。
『――鈴花……』
ふと、懐かしい声が耳に飛び込んできた。
鈴花ははっとして振り返るが、そこには、先ほどと変わらず、静かに墓が立っているだけだった。
「山南、さん……?」
墓に向かって鈴花が訊ねるも、墓からは何も聴こえてこない。
先ほどの声は幻聴だったのかとも思った。だが、あの心地良い声音は、はっきりと耳の奥に残っている。
「山南さん。私を、ずっと見守っていて下さい」
鈴花が言うと、冷たい北風が吹き抜ける。と同時に、鈴花の頬を温かな何かが優しく掠めていった。
その温もりを感じた鈴花は、小さく口許を綻ばせた。
【初出:2009年2月23日】