ここ数日、山南はずっと自室に篭もりっ放しだった。体調が優れないから――というわけではなく、全く別の理由だ。
何事も起こらないといいが、と鈴花を始め、周囲の誰もが思っていた矢先だった。
大砲でも打ち込まれたかのような激しい爆音が屯所内に響き渡った。
考えるよりも先に、鈴花は一目散に爆音の出所である山南の部屋へ駆け込んだ。
「山南さんっ! 大丈夫ですかっ?」
「ああ、桜庭君……」
山南はゴホゴホと咳をしながら鈴花に視線を向けた。
部屋の中には、明らかに発明の残骸であろう欠片があちこちに散らばっている。
だが、こんなことは日常茶飯事だからさほど気にはならず、それよりも何となく山南の顔に違和感を覚えた。
「――山南さん、眼鏡はどうしたんですか……?」
「え?」
鈴花に指摘され、山南はいつも眼鏡がかけられている鼻筋に人差し指と中指を持ってゆく。
「あれ、どこに行ったんだ……?」
「探しましょう。きっと、爆発した瞬間に部屋のどこかへ吹き飛んでしまったのかもしれません」
そう言って鈴花は、その場に屈み込み、手探りで慎重に眼鏡を探す。
山南も同様に探し始めた。
と、その時だった。鈴花の右の足裏から微かにパキンと音がした。
嫌な予感が頭を過ぎる。鈴花は恐る恐る足を上げ、音の正体を確認した。
――予感は見事に的中してしまった。
気を付けていたはずなのに、鈴花は山南の眼鏡を踏んでしまっていたのだ。割れるほどではなかったようだが、大きくひびが入っている。
山南も、ひび割れた眼鏡を凝視していた。
「す、すみませんっ! 私ったら……」
自分の注意力のなさに、鈴花はただ頭を深々と下げるしかなかった。
眼鏡は山南にとって、なくてはならないもの。それを壊したとなれば、簡単には許してもらえないことを覚悟していたのだが――
「桜庭君、顔を上げて」
そう告げる山南の声は、いつもと変わらず穏やかなものだった。
そんな山南に促され、鈴花はおずおずと顔を上げた。
「君は悪いことなんてしていない。むしろ謝るのは私の方だよ。それより桜庭君、怪我はしてないかい? 眼鏡の破片が刺さっていたりしたら大変だ。ちょっと足を見せて?」
山南に言われるがまま、鈴花は足袋を脱いで右足を彼に見せた。
やはり肝心の眼鏡がないせいだろうか。眉間に皺が寄っている。
「――うーん、すまない。やはり眼鏡がないとあまり見えないな……」
「――すみません……」
「あ、いや。別に君を責めてるわけではないよ」
項垂れる鈴花に、山南はわずかだが狼狽えている。
「しかし、放っておくわけにもいかないな」
山南はそう呟くと、鈴花の身体がふわりと宙に浮いた。
(えっ、えええっ?)
突然のことに何が起こったのが理解が出来ずにいた。だが、山南の腕に抱かれていることが分かり、とたんに鈴花に動揺が走った。
「やっ、山南、さん……」
「ん? 何だい?」
「え、えっと……、その……、お、重いですから……、私……」
桜庭の言葉に、山南は一瞬きょとんとしていたが、やがてあははと笑い出した。
「全然重くなんかないよ。むしろ華奢な方だと私は思うけどね」
山南はそう言うと、鈴花を抱き抱えて部屋を出る。
屯所内で擦れ違う隊士達は、ある者はわざとらしく目を逸らし、かと思えば、ある者は好奇の目でふたりを凝視してくる。
鈴花は恥ずかしさのあまり、山南の胸に顔を埋めた。
その後、鈴花は山崎に足裏を診てもらったが、特に怪我はしていなかったようで、山南も鈴花もホッと胸を撫で下ろした。
「にしても、敬ちゃんが鈴花ちゃんを抱っこしながらアタシの部屋に来た時は、ほーんとびっくりしちゃったわよぉ」
そう言ってきた山崎は、意味深な笑みを浮かべている。
「はは、急にすまなかったね。真っ先に思い浮かんだのが山崎君だったから。それに、この新選組の中で医療の心得があるのは君ぐらいだしね」
「ふふっ。まっ、いいわ。けど敬ちゃん、眼鏡がないんじゃしばらく不便よねぇ? そうだわ! いっそのこと、敬ちゃんの眼鏡が直るまで鈴花ちゃんが付きっきりで面倒見てあげなさいな」
「ええっ?」
山崎の思わぬ発言に、鈴花は声を上げた。
「な、何言ってるんですかっ? わわ、私が山南さんの、めめ、面倒だなんて、そんな……!」
「――嫌なの?」
「いえ、そうじゃなくてですね。私が側にいたら、かえって山南さんにご迷惑を……」
「私は迷惑だなんてこれっぽちも思っていないけど?」
ふたりのやり取りを黙って眺めていたはずの山南が、不意に口を開いた。
「桜庭君、君には眼鏡を壊されてしまったからね。こうなったら責任を取ってもらわないと」
〈責任〉という重い一言に、鈴花は言葉を詰まらせ、俯いてしまった。
だが、山南から続けられた言葉は予想外のものだった。
「でも、別に弁償しろなんてことは言わないよ。私はただ、君が側にいてくれるだけでいいんだから」
優しく染み入るような声に、桜庭はゆっくりと顔を上げた。
微笑みを浮かべる山南と視線がぶつかる。
「あらあら。鈴花ちゃんってば、顔が真っ赤よぉ?」
ニヤニヤしながら山崎が鈴花に絡んでくる。
「ほっ、放っといて下さい!」
そう言い返すものの、顔が紅潮しているのでは迫力に欠ける。むしろ、ムキになればなるほど山崎は面白がっているように見える。
「桜庭君」
穏やかな声で山南が言葉を紡いだ。
「早速で悪いんだが、これから私に付き合ってくれるかい? ちょっと外に用事があるからね」
「は、はい。もちろんです!」
桜庭が答えると、山南はさり気なく鈴花の手を取った。
「あらあら。じゃあ、仲良く行ってらっしゃいな」
山崎はなおもニヤけながらふたりを見送った。
山南には悪いが、鈴花は眼鏡を踏んで良かったと思っていた。
もし、眼鏡が無事なまま見付かっていたら、こうして側に寄り添うことなんて出来なかったのかもしれないから――
【初出:2007年9月7日】