障子を締めきった部屋の中で、山南は言葉を発することなく正座している。
外は太陽が燦々と瞬いているというのに、屯所内はまるで火が消えたかのように静まり返っていた。
(確かに、今日は私の葬式のようなものかもしれないが……)
そんなことを思いながら、山南は微苦笑を浮かべる。
昨日のちょうど今頃、山南は土佐藩士を斬った。だが、山南自身、剣を抜くことを心から望んではいなかった。
平和を愛する彼をそこまでさせたのは、山南塾で一番勉強熱心だった少年――小六が、その土佐藩士によって斬り捨てられたからであった。
これから、明るい未来が待っていたであろう少年の死。小六のことは特に可愛がっていただけに、その者達に対する怒りは自分でも驚くほど大きかった。
土佐藩士を斬ることに躊躇いは感じなかったが、仇討ちを小六が望んでいたとも思わない。結局は、自分の感情を鎮めるためだけに決闘を申し込んでしまったのだろう。
どのみち、今の新選組自体にも山南の居場所はない。土佐藩士との決闘も、彼に科せられた宿命だったのかもしれない。
(私に待つのは、死のみだ……)
山南は瞼を閉じ、これまで歩んできた人生を振り返る。
江戸の試衛館での楽しかった日々、夢と希望を膨らませて京に上がった日、壬生浪士組結成当初のこと――
新選組でただひとりの女性隊士である桜庭鈴花が入隊してきたのは、それから間もなくであっただろうか。
男ばかりの集団で、彼女がどれだけ着いて行けるだろうか。山南はそれを懸念していたが、彼の心配をよそに鈴花はみるみる成長を遂げた。
道場の娘だったというのもあったのか、剣の腕前は確かであったし、何より周囲の男達に負けず劣らず根性があった。
何事にも一生懸命な鈴花に、山南もいつしか想いを抱くようになっていた。鈴花に塾を手伝ってほしいと願ったのも、少しでも彼女を自分の側に置きたかったからに他ならない。
それなのに、山南は自ら鈴花と永遠の別れを選んでしまった。自分が愛した人であれば分かってくれるだろうと思っているが、半面で、鈴花を哀しませてしまうであろうことに胸が酷く痛む。
「――鈴花……」
山南は、今まで本人にも呼んだことのない名を口にすると、ゆっくりと瞳を開き、部屋の隅に置いてある机の前へと向かう。そして、今度はその前へ正座すると、筆と硯、紙を出し、筆を手にして墨を付けた。
まずは教え子達のことをつらつらと書き綴る。それぞれの得意不得意、性格――
もし、鈴花が自分の遺志を継いでくれたら、子供達の特性を綴ったこの手紙は必ず役立つであろう。
一通り書き終えてから、次は愛しい鈴花への想いを綴ろうとした。
書きたいことは山のようにある。しかし、何をどう伝えたら良いのか分からない。今さら、何を書いても言い訳にしかならないのではないだろうか。
(いや、何もしないままでは悔いが残るだけだ……)
山南は迷いを振りきるように深呼吸をひとつすると、おもむろに筆を動かした。
残してしまう謝罪と、鈴花への愛の証。
山南も本当は、鈴花と静かで平穏な日々を送りたかった。剣を捨て、愛する人と可愛い子供達と笑い合うことをどれほど夢に見続けただろうか。
書き進めるにつれて、山南の瞳に熱いものが込み上げる。
山南は慌てて目頭を押さえた。大切な儀式を前にして、総長たる男が泣くなどあってはならない。それに、小六を失ったあの日、鈴花に支えられながら泣くことが出来たのだから。
(目が赤くなっていたら、鈴花や子供達にもよけいな心配をかけてしまう……)
山南は瞬きを数回繰り返し、零れかけた涙を抑えた。
まだ、鈴花へ伝えることはある。
ありったけの想いを籠め、山南は筆を進めた。
「山南君、いいかい?」
手紙を書き終えたのを見計らったかのように、障子越しに名を呼ばれた。
「ええ、どうぞ」
山南が答えると、障子は静かに開き、そこから神妙な顔付きをした井上が姿を現した。
井上は部屋に入ると、山南の前に歩み寄り、向かい合わせに正座してそのまま俯いてしまった。
二人の間に、暫しの沈黙が流れた。
「――井上さん」
先に言葉を発したのは山南だった。
「そんな顔をなさらないで下さい。京に上がり、新選組を結成した時から、いつかはこのような日が来ると私自身も分かっていましたから。もちろん、最初は近藤さん達と志すものは一緒だったと信じていました。しかし、芹沢さんを粛清してから、私は新選組の在り方に疑問を抱いた。武力を以て周りの人々を制圧するのは、本当に正しい道であるのだろうかと……。
私はただ、争いなどと無縁な平和な日本を築きたかったのです。ただの夢想であることは私も重々承知しています。――それでも、私が描く理想の日本を見てみたかった……」
語るうちに山南の拳に自然と力が入り、はっと我に返った。
「――すみません。つい、井上さんに八つ当たり紛いなことを……」
山南が頭を下げると、井上は「いや」とゆっくりと首を横に振った。
「君の気持ちは俺もよく分かるからね。それに、山南君は優し過ぎるから、近藤さんや歳三君のような過激な考え方に着いてゆけなくなったのも頷ける。――ただ……」
「ただ、何ですか?」
山南が訊ねると、井上はひと呼吸置き、再び口を開いた。
「もっと、違う道もあっただろうに……。人間、死んで償うことが全てではない。これからの日本には君はなくてはならない存在だと俺も思っている。――だから……、このまま……」
そこまで言うと、さすがに井上も感極まってしまったのか、小さく嗚咽を漏らした。
途中で途切れた言葉。しかし、井上が何を言おうとしていたかは山南も察していた。
「井上さん」
俯いたまま涙を零す井上の肩に、山南はそっと触れた。
「あなたの気持ち、本当に嬉しく思います。ですが、私は逃げる気などありません。おこがましくも私は、新選組総長です。総長たる私が腹を斬ることにより、新選組はより発展してゆくでしょう。
井上さん、どうかこれからもずっと、近藤さんや土方君の支えとなり、隊士達の父親であって下さい。――それが、あなたへの最期の願いです」
「――山南君……」
井上は着物の袖で涙を拭くと、ゆっくりと顔を上げた。
「君の気持ち、確かに受け取ったよ。君との約束通り、これからも近藤さんを始め、みんなの支えとなれるようにしよう」
「ありがとうございます」
井上の言葉に山南は微笑むと、ふと、あることを想い出した。
「井上さん、もうひとつわがままを聴いてもらってもいいですか?」
「ん? 何だい?」
首を捻る井上の側で、山南は着物の懐に手を入れた。
そこから出てきたのは、つい先ほど机の前で綴っていた手紙だった。
「これを、桜庭君に……。ただ、すぐにではなく、もし、桜庭君が私の塾を引き継いでくれたら私の死後一月後に届けてほしいのです」
「――二通、あるようだけど……?」
「ええ。ひとつは山南塾の教え子達のことを書いていますが、もうひとつは……」
「桜庭君への恋文だね?」
「――そうなります」
井上に図星を指され、山南はほんのりと照れ笑いを浮かべた。
それを井上は微笑ましそうに眺めると、「分かったよ」と頷いた。
「一月後、必ず桜庭君へ届けよう。――しかし、君が直接贈った方が彼女も喜ぶだろうに……」
「――いえ、それは逆だと思います」
山南は哀しげに顔を歪めながら、首をゆっくりと振った。
「私の死の間際にこれを渡してしまったら、彼女をよけいに哀しませてしまいます。――いや、すでに桜庭君を傷付けてしまっているでしょうが……」
「――……」
井上は何も言わず、黙って山南の言葉に耳を傾けていた。
山南の決意は固い。たとえ、鈴花が泣きながら縋り付いてきたとしても、潔く最期を遂げねばならない。
「――山南君……」
井上は手紙を両手で持ちながら言った。
「今までありがとう。本当に楽しい毎日を過ごせたよ」
「私の方こそ、ありがとうございました。井上さんには、感謝してもしきれません」
山南はそう言うと、にっこりと笑んだ。
後悔はない。ただ、鈴花を置いて逝くことだけが胸に痞えているが。
決心が揺らいでしまうかもしれない。分かっていても鈴花の声が聴きたい。
死ぬまでの少しの間だけでもいい。それさえ叶うのであれば、悔いを残すことはなくなるだろう。
(鈴花、愛している。そして、ずっと、これからも……)
山南は心の中で恋人への想いを囁く。
鈴花が永遠に幸せであるようにと、切に願いながら――
【初出:2009年1月23日】