凍えるほど厳しい冬は過ぎ去り、辺りは春色に染まりつつあった。時おり吹き抜けてゆく風もまた、ふんわりとした柔らかさを感じさせる。
その中を山南と鈴花は並んで歩いていた。どこへ行くかは全く決めていない。ただ、気の向くまま足の向くまま、ふたりはゆったりとした足取りで歩き続ける。
「こうしたお散歩も、たまには悪くないですよね」
隣の山南を仰ぎ見ながら、鈴花は満面の笑みを見せた。
鈴花の笑顔に釣られ、山南も「そうだね」と口許を綻ばせる。
「最近はこうして外を出歩くこともめっきり少なくなったしね。あ、でも、桜庭君はそんなこともないかな?」
山南は何気ない気持ちで訊ねたつもりだった。
だが、鈴花はその問いに対し、先ほどまでの笑顔を消して代わりに表情を曇らせてしまった。
「――すみません……」
消え入るような声で謝罪する鈴花。
山南が熱を出して倒れて以来、誰よりも気にかけていてくれていただけに、山南にとっての些細な言葉は鈴花には大きく響いてしまったのであろう。
(私は、鈴花に心配をかけてばかりだ……)
鈴花の想いが伝播したように、山南の心も重苦しくなる。
どうしようもなく落ち込んでいた時、鈴花の明るい笑顔にいつも元気付けてもらっているのに、自分はどうだろう。非力なばかりか、かえって鈴花を傷付けることしか出来ない自分が歯痒くて仕方がない。
(いったい、どうしたら……)
と、その時であった。ほんのりと染められた一片の花弁が、風に乗って山南の前を通り過ぎて行った。
これは、と思う前に、鈴花が一点を指差しながら山南に言った。
「山南さん、あそこ」
鈴花の指差す先には、桜の並木道が続いていた。花弁は、どうやらそこから舞って来たようである。
「ねえ、行ってみましょうよ!」
桜を見付けた鈴花は再び笑顔を取り戻し、明るく山南を促してきた。
きっかけはどうあれ、すぐにいつもの鈴花に戻ってくれたことに、山南はほっと胸を撫で下ろす。
「ああ」
山南もにこりと頷くと、鈴花と共に桜並木へと入って行く。
まだ時季が少し早いので桜は八分咲き程度であったが、それでもふたりの頭上に広がる光景は充分過ぎるほど美しかった。
これらが満開の時を迎えたら、どれほど圧巻であろうか。桜並木の中を歩きながら、山南は思った。
「桜を見ていると」
不意に隣の鈴花が口を開いた。
「自分という存在の小ささを改めて思い知らされるんです」
「自分という存在、かい?」
鈴花の言葉を山南が反芻すると、鈴花は「ええ」と答えた。
「だって、桜は花を開いてもほんの数日で散ってしまうでしょう? だからこそ、その短い時の間にこうして、精いっぱいに花を咲かせる。でも、人間は桜と違って、肉体が滅びない限りは花弁が散ることはありません。どんなに失敗を繰り返しても、その分、やり直しだっていくらでも利くんですから」
鈴花はいったい、何を言いたいのであろうか。さしもの山南も鈴花の真意を図りかね、わずかに首を捻った。
そんな山南に、鈴花は真っ直ぐな瞳を向けながら問いかけてきた。
「山南さん。山南さんは今、この激動の時代で何をするべきだとお考えですか?」
これは予想外の質問であった。普段は無邪気で明るい印象が強いだけに、真剣な表情で難しいことを訊かれるとは思いもしなかった。
(私が今、なすべきことは……)
山南は暫し考え込む。
一番に望んでいるのは恒久の平和であるが、帯刀している立場としては軽々しく口に出来ることではない。しかし、山南塾に集まって来る元気な子供達を見るたびに、せめて、彼らにだけは哀しい末路を辿ってほしくないと切実に願う。
刀を一度手にしてしまったら、決して後戻りは出来ない。そして、人を殺めるたび、一生涯、その命の重みを全身で抱えながら生きねばならない。
山南もまた、やむを得ず数多の命を奪い、人を斬った晩は幾度となく悪夢にうなされ続けた。
(やはり、私は……)
桜の下で鈴花と見つめ合いながら、山南は意を決して口にした。
「私は子供達の、明るく希望に満ちた未来への道標となりたい。刀を持つことの哀しさ、そして、どれほど平和が素晴らしいかを伝えること。――それが今、私がするべきことではないかと思っている」
ここまで言うと、山南は覗うように鈴花を見つめた。
鈴花は表情ひとつ動かさずに黙って山南の言葉に耳を傾けていたが、やがて、嬉しそうに柔らかな笑みを見せた。
「思った通りの答えですね」
「そうかい?」
「はい」
鈴花はにっこりと頷いた。
「山南さんなら、絶対に子供達のことを最優先に考えるだろうな、って私は思いました。山南さんは優しくて温かい人ですから。――でも……」
鈴花は山南の前に立つと、腕を伸ばして頬に触れてきた。
「山南さん自身の幸せも、考えないといけませんよ。もちろん、山南さんにここまで想われて子供達は嬉しいでしょうけど、それは、山南さんがいるからこそなんです。私もそうです。山南さんが、こうして隣で笑っていてくれるから、幸せなんです」
鈴花の頬が、心なしかほんのりと朱を差している。もしかしたら、自分で口にした言葉に恥じらいを感じてしまったのかもしれない。
こういう面は、本当に可愛らしいと思う。同時に、少しばかり困らせてみたいという衝動にも駆られ、山南は鈴花の手を握り返した。
鈴花は瞠目している。多分、手を握られただけでも驚きだったのであろう。
だが、山南はそれだけで終わらせるつもりはない。鈴花に向けて笑みを浮かべると、そのまま、鈴花の唇に自らのそれを重ね合わせた。
口付けはほんの一瞬であったが、それでも山南の唇には鈴花の感触がしっかりと残っている。
唇が離れてからも、鈴花は呆然と山南を見つめている。いったい何が起こったの、とでも言いたげに。
「もしかして、嫌だった?」
今さら何を、ともうひとりの自分が言っているが、鈴花の純真な瞳を見ていたら訊ねずにはいられなかった。
鈴花は先ほどと変わらず顔を赤らめていたが、山南の問いに対し、ゆっくりと首を振る。
「いえ、確かにちょっと、びっくりしてしまいましたけど、別に嫌ではないです。――むしろ、嬉しいくらいで……」
最後の言葉は、消え入るように小さくなっていた。
恥じらいながらも、素直な気持ちを口にしてくれた鈴花。山南の中では、鈴花へ対する愛おしさが更に膨らんでいた。
気が付くと、山南は鈴花を自らの元へと引き寄せていた。口付けだけはどうにか思い留まったが、それでも鈴花への溢れる想いは抑えきれず、決して離すまいと鈴花を強く抱き締める。
山南に包まれてしまった鈴花の戸惑いが伝わってきた。しかし、山南はそれに気付かぬ振りをしていた。
ふと、鈴花の髪に薄紅色の花弁がはらりと落ちてきた。山南はそれを取ろうと片手を伸ばしかけたが、このまま鈴花の髪に留まらせておいた方が花弁も幸せだろうと思い直した。
「桜庭君」
鈴花を抱き締めたまま、山南は鈴花に訊ねた。
「君はいずれ、髪を伸ばす気はないかい?」
「髪、ですか……?」
鈴花は頭をもたげ、不思議そうに山南を仰ぎ見ると、「そうですね……」と答えた。
「今は戦闘の時に邪魔だと思って短くしているんですけど、伸ばすのも悪くないでしょうね。――でも、私の髪は山南さんと違ってこの通りの癖っ毛ですから、伸ばしてもあんまり綺麗じゃないと……」
「そんなことはない」
山南は鈴花に懐いている花弁を落とさぬよう、優しく髪を撫でる。
「桜庭君の髪は綺麗だよ。柔らかくて、色も温かさを感じさせるし。もちろん今の髪型も好きだが、長い髪の桜庭君も見てみたい。この淡い髪に、簪を挿した君を……」
「簪……」
鈴花は躊躇いがちに口にした。
「私に、似合うでしょうか?」
「似合うよ、必ずね」
山南は再び自分の胸に鈴花の顔を埋めさせた。
「今は無理でも、いつか刀が必要なくなった時は、ぜひとも髪を伸ばした姿を見せてくれないかな?」
山南の問いに、鈴花は首を小さく上下に動かした。
「――それじゃあ、日本が平和な世の中になった時に。今、という時代を、共に生き抜くことが出来たら、その時は……」
鈴花は答えると、山南の背に自らの両腕を絡めてきた。
また、天から桜の欠片が、ゆっくりと舞うように降りてきた。
【初出:2009年『香夢祭2』出品作】