剣術の稽古を終えた鈴花は、縁側に座ってぼんやりと空を仰いでいた。
二月になったというのに、今年に入ってからはいっこうに雪の降る気配がない。積もれば雪掻きで難儀することとなるが、やはり、雪のない冬はあまりにも味気なく感じる。
このままでは、雪を見ないまま冬が終わってしまうのでは、なんてことを思っていたら、突然、物陰からガサゴソと妖しげな物音が聴こえてきた。
鈴花ははっとして、物音のした方へと視線を移す。
ここが新選組の屯所であるというのは、この界隈に住んでいるものであれば分かるはず。それを承知で来たのであれば、よほど度胸があるのか、それとも、相当な鈍感のどちらかである。
(でも……、思い当たる節がないわけでもないのよね……)
鈴花は眉を顰めながら、侵入者が姿を現すのを辛抱強く待つ。
と、その時だった。
「おおっ、鈴花さんやか! いやあ、真っ先におまんに出逢えるとはらっきーぜよ!」
鈴花の前に現れた珍客は、彼女に満面の笑みを見せた。
同時に、鈴花はその珍客を目の当たりにするなり、やはりと思った。
この珍客の名は、才谷梅太郎。新選組とは縁もゆかりもないはずなのだが、ふらりと屯所に現れては、隊士達とすんなり雑じって談笑している。しかも、局長である近藤も、鬼副長の土方でさえも、才谷が屯所に来ても追い払うような真似を決してしない。
初めて逢った時も思ったが、本当に不思議な男である。
「ところで鈴花さん」
才谷は鈴花の隣に座るなり、「二月十四日が何の日か知っちゅうか?」と訊ねてきた。
「二月十四日、ですか……?」
鈴花は首を傾げながら、記憶を辿ってゆく。しかし、いくら考えてみても、それが何の日なのか全く想い出せない。
「――ごめんなさい。分からないです……」
知ったかぶりをしても仕方がないと思い、鈴花は素直に答えた。
「うーん……、やっぱりそうかえ……。確かに、日本人にはまだ馴染みのないものやきな……」
才谷は独りごちたかと思うと、鈴花の方を見て教えてくれた。
「二月十四日、異国では〈ばれんたいん〉ちゅう行事があるちゃ」
「ばれんたいん……?」
鈴花が重ねて訊ねると、才谷は「そうじゃ」と頷く。
「『ばれんたいん』ちゅうのは、女子から男に愛を伝えられる唯一の日ながだ。女子は愛の証として、男に贈り物をする。そして、男がその贈り物を受け取ってくれた時、ふたりはそこでめでたく結ばれるちゅうわけじゃ」
鈴花は才谷の話を、興味深く聴いていた。
二月十四日、異国の地で催される恋人達の祭典。しかも、女から男に愛を伝えるというのは、日本人の感覚ではまずありえない。もしかしたら、異国の女は日本の女と違い、愛を告白することに恥じらいを感じていないのかとも思った。
だが、鈴花はもっと別のことが気になっていた。
「ねえ、梅さん」
「何じゃ?」
「異国の女性は男性に想いを伝える時、どんな贈り物をするんですか?」
「そうじゃなあ……。一番ぽぴゅらーなのは、〈ちょくらあと〉という菓子を贈るんだそうじゃが、日本ではまず、手には入らんからのう……。まあ、贈り物なんてものは気持ちじゃき。おまんの想いが詰まった贈り物であれば、わしはどんなもんでも嬉しいぜよ!」
どうやら、とんでもない勘違いをされてしまったらしい。
鈴花は否定しようとしたが、嬉々としている才谷相手に何も言えなくなってしまった。
(ほんとは、あの人にって考えてたんだけど……)
才谷が隣にいても、鈴花の頭にはあるひとりの男の面影しか浮かんでいない。いつも穏やかな笑みを湛え、周りからも慕われている新選組総長。
(あの人は、どんな物なら喜んでくれるんだろう……?)
鈴花は再び空を仰いだ。雲ひとつない透明な空の中を、寒さを知らない小鳥がチチチと鳴きながら飛び交っていた。
◆◇◆◇
才谷に〈ばれんたいん〉の話を聞いてから数日が経過していた。
あれから鈴花は、新選組総長――山南敬助のためにと、暇を見つけて贈り物探しに奔走していた。
だが、これというものが見付からない。
最初に浮かんだのは本であったが、勤勉な山南のこと。京界隈の書籍はほとんど読み尽くしているだろうという結論に至って没。
次に思い当たったのは発明関連の道具であったが、あの危険極まりない発明を煽るような真似をしてしまったら、確実に土方から雷が落とされるのでそれもやむなく却下した。
鈴花は途方に暮れてしまった。
山南の喜ぶ顔が見たい。そう思っていたのに、山南のために何もしてあげられない。
そうこうしているうちにも、時は刻々と流れ、とうとう〈ばれんたいん〉当日を迎えてしまった。
結局、何も用意出来なかった。本当に、今まで何をやっていたのかと自分自身に呆れ返ってしまう。
「はあ……」
鈴花は自室で深い溜め息を吐く。
たまたまとは言え、今日は非番で良かったとつくづく思う。こんな憂鬱な気持ちで巡察に出たとしても、他の隊士の足を引っ張ってしまう。それどころか、命の危険に晒されることも充分に考えられる。
(明日までには、立ち直れるといいけど……)
そんなことを思っていた時だった。
「桜庭君」
障子越しに柔らかな男の声が聴こえてきた。
その声に、鈴花の鼓動は一気に速度を増す。
「は、はい……!」
思わず、返答する声が裏返ってしまった。
だが、相手は全く気にした様子もなく、「ちょっといいかい?」と訊ねてくる。
「どど、どうぞ!」
鈴花が答えると、障子は静かに開かれた。
「すまないね、急に」
そう言いながら鈴花の部屋に入って来たのは、山南だった。
まさか、山南が直々に訪れて来るとは予想だにしていなかったので、鈴花はすっかり動揺していた。
「実は、今日中にどうしても渡したいものがあってね」
障子を閉めるなり、山南は鈴花の前に正座する。
(渡したい、もの……?)
鈴花は首を傾げながら、山南を見つめる。
山南は懐を探り、和紙で包まれた物を取り出した。そして、それを鈴花の前にそっと差し出す。
「私に、ですか……?」
鈴花が訊ねると、山南は「そうだよ」と頷いた。
「今の君にはどうだろうかとも思ったのだが、店で目にしてから、どうしても気になってしまってね。つい買ってしまったんだ。良かったら、今すぐに開けてみて?」
山南に促され、鈴花は包みを手にすると、丁寧に和紙を剥いでいった。
中から現れたのは、淡い桜色に染められた髪結紐。確かに、断髪している鈴花には無縁のものである。
「何故、これを私に……?」
鈴花の問いに、山南は少し躊躇ってから「実はね」と話し始めた。
「才谷さんから、今日は恋人達が愛を誓い合う日だということを聴いたんだよ。と言っても、それは異国の風習で、女性から男へ贈り物をする日らしいのだけど……。でも、私は逆でも良いのではと考えて、こうして君に贈り物をしようと思い立ったわけだ。ほんとは、もう少し時間があれば発明品のひとつでも作って贈るつもりだったんだが……」
山南はそこまで言うと、照れ臭そうに微苦笑を浮かべた。
山南のためにと思い、贈り物探しに奔走していた鈴花。それと同時に、山南も鈴花のための贈り物を探してくれていたのだ。
「――山南さん……」
鈴花は俯くと、ぽつりと語り出した。
「実は、私も山南さんの贈り物を探していました。私も梅さんから、〈ばれんたいん〉のことを聴いてたので……。でも……、結局何も探せませんでした……。山南さんが心から喜んでくれるものがなんなのか全く分からなくて……。だから山南さんからの贈り物は嬉しいんですけど……、申し訳ない気もしているんです……」
鈴花の話に山南は黙って耳を傾けている。
「山南さん、もし、これからでもいいのであれば欲しいものを言ってもらえませんか? ただ、あまり高価な物は無理ですけど……。でも、出来る限り山南さんの想いにお応えしますので!」
鈴花はそこまで言うと、顔を上げて山南を見る。
山南はそんな鈴花を黙って見つめていたが、やがて口を開いた。
「それじゃあ、ひとつお願いしようかな」
「はい、もちろんです! 何なりと仰って下さい!」
山南の一言に救われたような気持ちになった鈴花は、ほっと胸を撫で下ろす。
山南は口許に笑みを浮かべた。
「では、少しの間、目を閉じていてくれるかい?」
「え? ええ……」
山南の思わぬ言葉に鈴花は怪訝に思いながらも、素直に彼に従い、目を閉じた。
と、その時だった。両肩をそっと抱かれたかと思うと、今度は唇に温かなものが触れた。
鈴花は驚きのあまり目を開きそうになったが、どうにか思い留まった。
予告のない口付けは短い時間であったはずだが、妙に長く感じられた。
山南の唇が離れるのを感じると、鈴花はゆっくりと目を開く。
「――ちょっと、強引だったかな?」
山南に訊かれ、鈴花は「少し……」と答えた。
「でも、これで良かったんですか……?」
「良かったも何も、私は君と触れ合えることが一番幸せなのだから。君はただ、私の側にいてくれるだけでいいんだよ。そして、どんな時も、私の支えとなってくれさえすれば……」
山南はそう言うと、鈴花の頬を優しく撫でた。
山南の温かな手は、鈴花をこの上ない幸せへと導いてくれる。
「山南さん」
鈴花は真っ直ぐに山南を見つめた。
「私も、山南さんがずっと側にいてくれたら嬉しいです。だから、どんなことがあっても、私から離れたりしないで下さい」
「ああ」
山南は笑みながら頷く。
「私は、ずっと君と共にある。今、この場で誓うよ」
【初出:2009年2月13日】