この世に生を享けた時から、その男の運命は決まっていたのかもしれない。
そう、人は誰しも、宿命を背負って生まれてくるのだから――
◆◇◆◇
夜の静寂を縫うように、雨音が静かに鳴り響く。時に強く、時に弱く――
池田屋事件の当日に倒れて以来、山南敬助は床から出られない日が多くなった。熱はとうに下がっているし、体はいたって健康。
問題は精神的なところにある。平和を何より愛する彼は、新選組のあり方に対して少しずつ疑念を抱くようになっていた。
確かに、信念を貫くには多少の犠牲も仕方がないのかもしれない。しかし、だからと言って関係のない庶民まで巻き込んでも良いものだろうか。
これ以上、人々が苦しむ姿を見たくない。出来ることなら、二度と刀を抜きたくなどない。
「山南さん」
柔らかな少女の声で、山南ははっと我に返った。
「どうしたんですか? ちょっと怖い顔をしてますよ……?」
少女は心配そうに山南の顔を覗き込む。
「もしかして、お邪魔ですか? それでしたら私は……」
「待って」
立ち上がろうとする少女を、山南は慌てて制止した。
「邪魔じゃない。いや、むしろ君にはここにいてもらいたい。お願いだから、もう少しだけ……」
「――分かりました」
山南の必死な想いが通じたのか、彼女は再び元の場所に座った。
それにしても、彼女がいることも忘れて物思いに耽ってしまうとは不覚だ。おまけに、よけいな心配までかけさせてしまったのだから。
少女――桜庭鈴花に想いを抱くようになったのは、いつの頃からだろう。
男達の背中を必死で追う姿も、可愛い花を見付けたと言って笑う姿も、全てが愛おしくて堪らない。出来ることなら、誰の目にも触れさせず、自分の中に閉じ込めてしまいたい。
だが、半面で鈴花を縛り付けることにも不安を感じている。
彼女はまだ若い。そして、これから先は必ず明るい未来も待っている。
対して山南はどうだろう。
上辺ではともかく、心の中はすでに新選組という組織から離れつつある。
先も全く見えない。ただ、自分の与えられた運命に逆らわずに生きることが精一杯だった。
「桜庭君」
床に仰向けになったまま、山南はゆっくりと口を開いた。
「君は、時の流れが怖いと感じたことはあるかい?」
「えっ?」
突然の問いに、鈴花は困惑したように目を見開いている。
また、沈黙が流れる。相変わらず、降り止まぬ雨の音だけが耳に煩く響いていた。
「――私は」
ふと、鈴花がおもむろに口を開いた。
「正直なところ、あまり考えたことはないです。ただ、時の流れに身を任せるだけで……。
でも、これだけは思ってます。自分に嘘を吐かない。そして、絶対に後悔をするような一生は送りたくない、と」
「そうか。君らしい答えだね」
鈴花の言葉を聞いた山南は、素直な気持ちを述べた。
やはり、彼女はあまりにも違い過ぎる。真っ直ぐで、自分自身に対し強い信念を持っている。
(それに比べて、私は……)
考えながら、ひっそりと自嘲する。
あまりにも高過ぎる理想。実現出来る自信は、全くと言っていいほどない。
「――怖いんですか?」
澄んだ瞳を山南に向けながら、鈴花は静かに訊ねてきた。
さすがの山南も彼女の視線をまともに受け、心臓の鼓動が速くなるのを感じていた。
「――そうだな」
山南は微苦笑を浮かべた。
「君の言う通り、毎日が当たり前のように過ぎてゆくのが怖くて堪らない。何も出来ず、ただ、この場で未来の平和を願うのみ……。運命に流されるまま、私は朽ち果てるしかないのかもしれないと思うと、ね」
ここまで言うと、山南は鈴花を見た。
鈴花は真っ直ぐに山南を見つめたまま。
また、先ほどのように沈黙が流れてしまうのだろうか。そう思っていたが――
「山南さん」
鈴花は哀しげな笑みを漏らしながら、山南の頬にそっと触れてきた。
「山南は優し過ぎるんです。自分のことより周りを最優先にして……。でも、時には自分のために生きるのも大切だと私は思いますよ。山南さんの考えは間違ってなどいない。それはみんな分かっています。――そして誰より、山南さんの素晴らしさは私が分かってますから」
「桜庭君……」
山南の頬を撫でる手を、彼は自分の手で優しく掴んだ。
突然のことに驚いたのか、鈴花は瞠目したまま硬直している。
そんな彼女を愛らしく想いながら、山南は口許に微笑を浮かべる。
「ありがとう。君の気持ち、とても嬉しいよ」
山南はそう言うと、一度鈴花から手を離して半身を起こした。そして、固まったままの鈴花の身体を自分の元へと引き寄せた。
温かくて、鼻腔をくすぐる仄かな香り。それをもっと感じたくて、さらに強く抱き締める。
「や、山南さん……」
山南の腕の中で、鈴花が戸惑ったように彼の名を呼んだ。
「すまない……」
抱き締めたまま、彼は囁くように謝罪を口にする。
縛り付けたくなどない。頭の中ではそう言い続けているのに、感情が邪魔をして制御が利かない。
どれほどの時間が流れただろう。山南はゆっくりと鈴花を開放した。
鈴花は何も言わない。ただ、抱き締められる前と同様、彼を真っ直ぐな視線を注いでくる。
罪悪感が胸を過ぎる。山南は視線を逸らそうと、俯きがちに目を閉じた。
彼女はあまりにも眩し過ぎる。そして、穢れなき瞳は彼の心を掻き乱す。
(彼女に、軽蔑されても仕方がない……)
そう思ったのだが――
「山南さん、目を開けて下さい」
想いの他優しい声が、山南の耳に入り込んできた。だが、開けられない。鈴花と視線が合ったら、また、抱き締めたい衝動に駆られてしまうから。
と、その時だった。今度は山南の身体が温かいものに包まれ、思わず目を開けてしまった。
「ああ……。やっと私を見てくれましたね」
山南と視線が合った鈴花は、花のような微笑みを見せた。
「――君に、軽蔑されたと思ったが……」
「軽蔑? するわけないですよ」
笑みを浮かべたまま、鈴花は続けた。
「私はただ、山南さんが幸せそうに笑ってくれることを望んでいるだけです。これから先、どんな運命が待ち受けているか分からない。でも、運命というものは変えられると信じています。だからどうか、自分を追い詰めるような真似だけはしないで下さい。山南さんの辛さも、苦しさも、私が消し去って見せますから」
鈴花はそこまで言うと、ふうと息を漏らした。
山南は呆然とする。親子ほどではないにしろ、それなりに年の離れた彼女にここまで言われるとは、予想もしていなかったのだ。
不快感はなかった。むしろ、鈴花に深く想われていたことを改めて知り、じめじめした気持ちが少しずつ晴れ渡ってゆくように感じた。
「桜庭君」
再び鈴花を抱き返しながら、山南は囁くように言った。
「私はこの通り、どうしようもなく弱い男だ。これから先もきっと、君を困らせてしまうかもしれない。それでもずっと、私の側にいてくれるかい?」
「さっきも言ったはずですよ」
鈴花は甘えるように、山南の胸に顔を埋める。
「私は、山南さんが笑ってくれるだけでいいんです。愛する人の笑顔を見ていること。――それが、私の最高の幸せですから」
◆◇◆◇
決められた運命。それを変えることは難しいかもしれない。
それでもふたりは願い続ける。
〈運命〉という名の困難を乗り越えること。
そして何より、永久の平和を――
【初出:2008年『恋華阿弥陀Ⅱ』出品作】