ほんのりと甘く

永倉新八×桜庭鈴花


 その日、鈴花は早くに目が覚めた。まだ夜は明けていない。
(なんで……)
 鈴花は再び目を閉じる。だが、何故か寝付けない。何度も布団の中で寝返りを打ち、結局、諦めて身を起こした。
 全身に纏わり付く冷気に鈴花は身体を震わせながら、着替えを始めた。
「さて、どうしたものか……」
 鈴花は呟いた。
 こんな時間では、みんなもさすがに寝入っていることだろう。だからと言って、部屋でぼんやり過ごすのも味気ないような気がする。
(ちょっと、外の空気でも吸ってこようかな……)
 鈴花はそう思い、まだ温もりの残る布団を片付ける。そして、部屋を出ると、静かな足取りで庭へ出て行った。

 さすがに外の寒さは相当なものだった。北国育ちであるはずの鈴花も、さすがに身を固める。
(それとも、すっかり京に順応しちゃったのかしら……)
 そんなことを思っていたら、近くを人影らしきものが通り過ぎて行った。
「あれは……」
 遠目からでもすぐに分かった。
 鈴花は寒さを吹き飛ばすように、その人影を追う。
「永倉さん!」
 周りの迷惑を顧みず、ついつい大声で呼び止めてしまった。
 その人――永倉は足を止め、こちらを振り返る。
「何だ、桜庭か。オメェ、こんな時間に何してんだ?」
 怪訝そうに訊ねる永倉に、「それはこっちの台詞です」と返した。
「永倉さん、今日は確か巡察じゃなかったですよね? それなのに……」
 言いかけてはっとした。永倉の出先――それは考えるまでもない。
(そ、そうよね……。永倉さんは……)
 鈴花は永倉から目を逸らす。
 永倉という人間のことはよく分かっている。分かっているのに、感情が着いてゆけない。
「おい、どうした?」
 急に黙りこくってしまった鈴花のことを、永倉は心配そうに覗き込んでくる。 だが、その行為がかえって鈴花の中のもやもやを増大させた。
(でも、永倉さんは私の気持ちを知ってるわけじゃない……。ましてや、私のことなんて……)
 考えながら、改めて外へ出てしまったことを深く後悔した。
 部屋で大人しくしていれば、永倉と遭遇することはなかった。そして何より、こんな想いをせずに済んだのに。
「――何があったか知らねえけどよ」
 永倉がぽつりと言った。
「ひとりで抱え込むのはやっぱ良くねえと思うぜ? な? 悩みがあるんなら俺に……」
「誰のせいだと思ってるんですか!」
 永倉の言葉に、鈴花の怒りは一気に爆発した。
「そりゃあ、永倉さんが綺麗な女性をお好きなのは知っています! それはもう、島原有数の絶世の美女を! でも……、私だって女なんです……。好きな人には振り向いてもらいたいと、いつも願っているんです……」
 言いながら、彼女は段々と惨めな気持ちになってきた。
 つまらない嫉妬だ。島原の遊女と自分を比べること自体、間違っているのは分かっている。それに、剣で身を立てると決意したのは他でもない、鈴花自身だというのに。
 と、その時だった。ふわりと、何か温かいものが彼女を包み込んだ。
 鈴花は、永倉の腕に抱かれていた。
「鈴花」
 吐息と共に、自分の名を呼ぶ永倉の甘い声が耳を掠める。
 鈴花は固まっていた。
 高鳴る鼓動。体温も急激に上昇する。
「確かに俺は、オメェの言う通り、綺麗な女は好きだけどよ。でも、俺が一番惚れてる女は……、鈴花、オメェだけだ……」
 永倉はそう言うと、壊れそうなほど強く抱き締める。
(永倉さんが……、私を……?)
 信じられない思いだった。だが、確かに彼女は今、永倉の腕の中にいる。先ほどの声も、耳朶にしっかり残っている。
「――永倉さん……」
 永倉の胸に顔を埋めながら、鈴花は確かめるように口にした。
「今の言葉……、信じても、いいんですか……?」
「当たりめえだ!」
 彼女の不安を吹き飛ばすように、永倉は力強く言った。
「俺はさ、何も飾らねえ、ありのままの鈴花が一番好きなんだよ。甘い物を食ってる幸せそうな顔だとか、ちょっと気が強くて、すぐにムキになるとことか、な」
「――最後の台詞、全然誉め言葉になってませんけど……」
「そ、そっか……」
 鈴花の静かな突っ込みに、永倉は少々困惑気味だった。
「ま、まあ! つまりは、オメェはずっと変わらないでいた方がいいってことで、って俺も何言ってんだか……」
 必死で言葉を選ぼうとしているのが、鈴花にもありありと伝わってきた。そんな永倉が微笑ましくて、つい、顔が綻んでしまう。
「――永倉さん」
 鈴花は顔を上げ、真っ直ぐな瞳で永倉を見つめた。
「私も、ありのままの永倉さんが大好きですよ。でも……、出来るならば、島原へは行かないでほしいです。――やっぱり、不安になるから……」
 そう告げた彼女を、永倉はどう思ったのだろう。ただ、黙って見つめ返している。やはり、島原へ行くな、は永倉には厳し過ぎる難題だったのか。
「――分かったよ」
 しばらくして、永倉が口を開いた。
「俺もこれ以上、オメェの哀しむ顔なんざ見たくねえからな。島原通いは控えよう。ただし、俺からも条件がある」
「条件? 何ですか……?」
 鈴花は首を傾げながら訊ねた。
 すると、永倉はゆっくりと、彼女に顔を近付けてきた。距離は少しずつ狭まり、気が付くと、互いの唇が重なり合っていた。
 突然のことに目を見開く。
 一方、永倉はそんな鈴花にニヤリと笑いかける。
「俺からの条件だ。一日一回はこうして触れ合うこと。いいな?」
 少し強引な気もした。だが、想いを寄せていた相手からの口付けは、決して悪いものではない。
「どうなんだ?」
 何も言わない鈴花に、永倉は質問を重ねる。
 鈴花は声に出して伝える代わりに、今度は鈴花から永倉に返した。

 ほんのりと甘くて、柔らかな口付けを――

【初出:2008年3月16日】
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