年の瀬が押し迫り、京の町は毎日のように賑わっている。
その中を、鈴花はひとりで歩いていた。
京に上がったばかりの頃は、どこに何があるのか分からず右往左往していたが、巡察であちこち回っているうちに、ひとりでいても迷うことはなくなった。特に甘い物の店に関しては相当詳しくなり、新たな店を発見しては、同じ甘党仲間である近藤や山崎、島田を誘って一緒に出かけている。
本当は、今日も誰かを誘って甘味処巡りをしたかったのであるが、生憎、山崎と島田は監察方の任務に出されてしまった。
近藤に関しては、最近、夜遊びが過ぎると土方に釘を強く差され、部屋から出られずにいるようだった。
(無理に連れ出しそうものなら、あとが怖いものね……)
鈴花は鬼副長の仏頂面を思い浮かべ、ぶるりと身震いする。
触らぬ神に崇りなし――
そんな諺が頭を過ぎった。
しばらくすると、鈴花は反物の店の前に辿り着いた。隊務に追われる鈴花には縁遠い場所だが、ほとんど無意識にその中へと足を踏み入れていた。
中に入ると、様々な色に染め上げられた布が豊富に並べられている。
(どれも綺麗……)
色彩鮮やかな反物に目を奪われていたら、背中越しに店主が、「いらっしゃいまし」と声をかけてきた。
「何かお探しですか?」
にこやかに訊ねてくる店主に、鈴花は心底困惑した。
「い、いえ……。その……」
鈴花が答えに窮していた、まさにその時であった。
「あれ、桜庭君?」
聞き覚えのある声が、鈴花を呼んできた。
鈴花が振り返り、それを確認すると同時に、声の主は「ああ! やっぱり!」と声を上げた。
「いやあ、こんな所で桜庭君と逢うなんて思いもしなかったよ」
「こ、近藤さん……?」
鈴花は呆然と、声の主である近藤を見つめる。
「あの……、今日は屯所を出てはいけなかったんじゃ……?」
鈴花が訊ねると、近藤はにやりと不敵な笑みを見せた。
「ふふふ……。トシの目を盗んで出て来たんだよ。だいたいさあ、ちょっと夜遊びが過ぎるくらいで外出指し止めなんてトシも堅すぎるっつーの!」
「は、はあ……」
近藤の言葉に、鈴花はどう返してよいのやら分からず戸惑った。
そう、近藤とはこういう男なのだ。見た目は派手だし、土方に比べると迫力に欠ける。
最初は近藤が局長だというのが信じられなかったが、付き合いを重ねてゆくうちに、近藤という男の凄さをまざまざと見せ付けられた。
情に厚く、男気もある。だからこそ、何百といる隊士達からも信頼を寄せられている。
(本当に、こういう不真面目さがなくなれば……)
そんなことを思っていると、近藤が怪訝そうに鈴花を見た。
「桜庭君、君さあ今、俺のことを、不真面目だ、とか思ってない?」
「えっ……? そ、そんなことは……」
鈴花は慌てて否定しようとするものの、近藤は「ここに書いてるよ」と、自分の顔を指差した。
「――君は分かりやすいからねえ。けどさあ、嘘でもきっぱり否定してほしかったなあ……」
まるで子供のように拗ねる近藤に、鈴花もどうして良いのか分からなくなった。
だが、一番困っていたのは店の主だった。
「あの……」
遠慮がちに、店主がおずおずとふたりに割って入る。
「出来ましたら、店の中では、その……」
「あ、ああ。悪い悪い」
店主の言わんとしていることをすぐに察し、近藤はすかさず謝罪した。
「えっと、そうそう! 桜庭君と逢ったせいで忘れかけていたけど、頼んでた物を取りに来たんだったよ!」
深い意味はないのであろうが、近藤の台詞が妙に引っかかった。
(私のせいで用を忘れていた、って……)
店主と話す近藤を、鈴花は恨めしい気持ちで睨む。
だが、当の近藤は先ほどと違い、全く意に介していない。まるで、鈴花には興味がないと言われているようである。
(まあ、そんなこと、ずっと前から分かってはいたけど……)
そう思っていても、不満は決して拭いきれない。
いつしか近藤に惹かれてゆき、しかし、決して結ばれることがないというのも分かっていた。
そもそも、妻子ある男を愛してしまうこと自体が間違いなのだ。鈴花自身もそれはよく分かっているので、誰にも本心を告げず、ひっそりと近藤を想い続けてきた。
「桜庭君」
ぼんやりとその場に立ち尽くしていた鈴花に、近藤が声をかけてきた。
「どうした? 急に元気がなくなってるけど?」
まさか、目の前に元凶がいるとは口が裂けても言えない。
「いえ、何でもないです」
鈴花は笑顔を繕う。以前から、近藤は鈴花の笑った顔が一番好きだと言っていたので、どんな状況でも笑うのが癖のようにもなっていた。
「――無理をしてるな」
自然な笑みを作ったはずが、近藤にはそうは見えなかったらしい。そして、何を思ったのか、鈴花に背を向けて店内を物色し始めた。
(やっぱり、私は無視なのね……)
近藤の行動に、心の中のささくれがさらに大きくなるのを感じた。
もう、この場を離れたい。出来ることなら近藤と顔も合わせたくない。もちろん、それは除隊でもしない限り無理な話であるが。
しばらくして、近藤はひとつの反物を手に取った。鮮やかな朱色に染められた、鈴花とは遥かに縁遠い印象がある。
もしかしたら、馴染みの遊女にでも贈るつもりなのか。そう思った時だった。
「桜庭君、ちょっと」
近藤が鈴花を手招きする。
鈴花は首を傾げつつ近藤の側へ行くと、近藤は彼女の身体にそれを宛がった。
「うん、やっぱこれだ!」
近藤は鈴花と反物を交互に見比べながら、満足そうに何度も頷いた。
店主も鈴花を見て、「ええ、良くお似合いですよ」と、にこやかに同意していた。
「だろ? いやあ、我ながら目が高いよなあ! よし! これを貰うぜ!」
「ありがとうございます」
何が起こったのだろうか。鈴花は瞠目したまま、ふたりのやり取りを見つめる。
近藤は店主に先ほどの反物の代金を支払い、店主はえびす顔でそれを受け取っていた。
「ほら、桜庭君。そろそろ行くぞ?」
近藤に促され、鈴花は夢心地のまま店をあとにした。
外に出ると、陽が傾きかけていた。遅い時間ではないはずだが、さすがに冬は暮れるのが早い。
「――近藤さん……」
町中を並んで歩きながら、鈴花が口を開いた。
「ん?」
「あの、さっきの反物ですが……」
「え? ああ、あれは俺から君へのご褒美だよ。桜庭君は女の子にも関わらず、男ばかりの集団で毎日頑張っているからね」
「え、でも……」
「何だい? ――もしかして、あれだけじゃ不満だった?」
不安げに訊ねる近藤に、鈴花は「いえ!」と強く首を振った。
「その逆です。私なんかに、あんな高価なも……」
「はい、待った!」
鈴花が言いかけた言葉を、近藤が素早く遮った。
「桜庭君、あれは俺から君への精いっぱいの気持ちなんだからさあ。それを、私なんか、で片されてほしくないなあ……。どうせなら素直に、わあ、ありがとう! って手放しで喜んでもらいたいよ」
「す、すみません……」
鈴花は俯きながら、謝罪する。
そんな鈴花に近藤は言った。
「まあ、俺が好きでやったことだからな。でも、これだけは憶えといてよ。俺にとって君は、誰よりも最愛の恋人であると」
思いがけない台詞に、鈴花は弾かれたように顔を上げる。
いつになく、近藤の瞳には優しさが宿っている。
近藤を好きなのは自分だけ。そう思っていただけに、近藤の言葉は素直に嬉しかった。
近藤の妻や娘への罪悪感がないわけではない。しかし、今は近藤を愛する想いの方が勝っている。
「近藤さん」
鈴花は近藤を真っ直ぐに見つめた。
「私も……、近藤さんを恋人だと思っていいんですか?」
鈴花の問いに、近藤は強く頷いた。
「もちろん。――ずっと、俺と君は……」
近藤はそっと、鈴花の手を取った。
こうして手を繋ぐことを、どれほど切望したであろうか。このひと時は、鈴花にとって、生涯忘れることの出来ないものとなるかもしれない。
(奥さん、ごめんなさい……)
心の中で謝罪しつつ、それでも強く近藤の手を握り締めた。
最期の一瞬まで、近藤の温もりを感じつつ共にいられるようにと――
【初出:2009年1月4日】