静まり返った闇夜の中を、ひとりの男が歩いている。それなりに酒を煽っているはずだが、男の表情は素面の時と何ら変わりはなく、足取りもしっかりしていた。
(さて、そろそろ出ようか)
物陰に潜んでいた大石は、その場からゆらりと出ると、男の前に立ち塞がった。
男は大石の存在に気付くと、ぴたりと足を止めた。
「こんばんは、伊東さん」
端正な顔立ちの男に向かい、大石はにやりと不敵な笑みを浮かべる。
伊東と呼ばれた男は怪訝そうに大石を睨んでいたが、彼が伊東を待ち伏せていた理由を察したようであった。
「なるほど……。さすがは近藤さんと土方さんだ。私が裏切った時のことを考えて、君をここに潜ませていたというわけか」
伊東は苦笑していたが、別段気分を害している様子もなかった。
「もちろん、私もひとりで彼らの元へ赴こうと考えた時から覚悟はしていましたからね。ですが、それも危惧に終わった。あまりにあっさりし過ぎているような気がしないでもないですが」
朗らかな笑みを浮かべる伊東と向かい合いながら、大石は何とも言い難い複雑な心境に陥っていた。
この男を見ていると、何故か虫唾が走る。理想と平和は、大石が最も嫌いな言葉である。
大石という男は人を斬ることに快感を覚えている。肉の斬れる感触、飛び散る鮮血の匂い、そして、断末魔の叫び。どれも大石を高揚させて止まない。
だが、まだ満たされていない。才谷を斬った時にも〈何か〉を得た感触はあったが、それでもまだ物足りなさを感じた。
(そう、俺はこの男を斬って〈完成〉する)
大石はおもむろに刀の柄に手をかけた。
伊東と近藤が和解し合ったことはすでに大石の耳にも入っていた。
だが、彼はそれをあえて無視した。理由はどうあれ、自分を〈完成〉させるには伊東を斬らねばならない。
「――何の真似ですか……?」
伊東は眉を顰めて大石を睨んだ。
大石は「見た通りですよ」と、口の端を上げて答えた。
「伊東さん、あんたにはここで死んでもらいます」
言い終わる間もなく、大石は素早く抜刀した。
伊東も咄嗟に自らの刀に手をかけたものの、わずかに遅れを取り、腕に一太刀を受けてしまった。
「くっ……」
伊東の顔が苦渋で歪む。斬られた腕からは赤黒い血が滴り落ち、着物の袖をじわじわと染めてゆく。
だが、伊東はその傷をものともせず、大石に対峙する。
刀がぶつかり合うたび、漆黒の闇に仄かに火花が飛び交う。
「ふうん……。ただの優男かと思ったけど、なかなかやりますね」
傷を負っても腕の衰えを見せない伊東に、大石は少しばかり驚きつつ、また、喜びも感じていた。
「――見くびらないでもらいたい。私はこれでも、江戸で道場を仕切っていた身。それに……、私はまだ、やらねばならぬことがある。ここ、君に斃されるわけには……、いかない……!」
伊東は歯を食い縛りながら、大石の剣を交わしている。
刀を交えるたび、伊東の生に対する執念を大石は嫌気が差すほど感じさせられた。
だが、伊東が斃れるのも時間の問題である。
「伊東さん」
疲れを微塵も感じさせず、大石が淡々と言った。
「俺だって、何にも考えてないわけじゃないんですよ。おい、そろそろ出て来なよ」
大石が言い終えると同時に、伊東の真後ろから別の新選組隊士が出て来た。
「な……っ……」
突然の出来事に、伊東も驚きを隠せなかったようだ。言葉を失ったまま、伊東は背中から急所を突かれた。
地面に崩れ落ちる伊東の身体。全身からは、大石に斬られた腕から出たものとは比べ物にならないほど、多量の血が噴き出していた。
うつ伏せで倒れている伊東の前に、大石はゆっくりと膝を折る。
「……す……か……」
事切れる寸前、伊東は何かを口にしていた。はっきりとは聴き取れない。しかし、大石は何を言ったのか理解した。同時に、笑いが込み上げる。
「ククッ……。こんな時まであいつのことを……」
伊東が完全に息絶えたことを確認した大石は、再び立ち上がり、その場を去った。
◆◇◆◇◆◇
新選組と御陵衛士との戦いが終わった頃、鈴花は油小路へとやって来た。
壮絶な争いが繰り広げられたのであろう。辺りには塵同然に打ち捨てられた多くの遺体。その中には、かつての新選組古参幹部であった藤堂平助もいた。
人の死は何度も目にしている。しかし、決して慣れるものではない。
鈴花は静かに亡骸に手を合わせると、今度は違う遺体の近くへと歩み寄った。
周りの遺体よりも時間が経過しているはずだが、それでも、流れ出る血は止まることを知らない。
鈴花はその前に膝を落とすと、それをそっと抱き締めた。
冷たい。つい先刻まで、近藤の前で笑っていたのが嘘のようである。
「伊東さん……」
慈しむように彼の名を口にする。
途端に涙が零れ落ちる。伊東が死んでしまうことなど、考えもしなかった。
優しくて、温かくて、鈴花を包み込んでくれた身体。それを今は、鈴花が伊東を包んでいる。
温めてあげないといけない。きっと、伊東は寒さに凍えている。だが、どんなに強く抱き締めても、伊東の体温は決して上がらない。
ふと、鈴花の脳裏に伊東が新選組を離脱する時のことが過ぎった。
一緒に来ないかと声をかけてくれた伊東。しかし鈴花は、新選組を離れられない運命であった。
伊東と離れるのは辛かったが、それでも、心だけでも繋がってさえいれば、いつかは一緒に笑い合える日がくるであろうと信じていた。
それが、今日になって見事に打ち砕かれた。
何故、こんなことになってしまったのか。伝令が遅れてしまったのだと聞いたが、果たして本当だったのだろうか。
と、その時だった。
「敵の遺体を抱き締めて、いったい何を考えてるんだい?」
背中越しに男の声が聴こえてきた。
鈴花は伊東を抱いたまま、ゆっくりと後ろを振り返る。
声の主はすぐに分かった。同時に、全てを悟った。
「あなたが……、大石さんが、伊東さんを殺したんですね……?」
涙を浮かべた目で、鈴花は大石を強く睨む。
「だったら、どうするんだい?」
悪びれもせず訊き返す大石に、鈴花は湧き上がる怒りを抑えられなかった。
伊東の遺体をそっと地面に戻すと、その場からゆらりと立ち上がる。
「――近藤さんと伊東さんは、ちゃんと和解し合いました。暗殺は取り止めよとの伝令も出した。それなのに、あなたはそれを無視した。私だけでない。みんな、分かっています。あなたは、自分の満足を得るためだけに……、伊東さんを……」
鈴花の手は、無意識に自らの刀の柄を握っていた。
「本気で俺とやり合う気? 俺は別に構わないけどさ。――けどお前、死ぬよ?」
大石の表情が変わった。まるで、悪鬼に取り憑かれたような冷気を全身から放っている。
「――私は……、どうなっても構わない……。その代わり……、あなたにも一緒に死んでもらう……!」
鈴花は大石を睨んだまま、全身を震わせていた。やり場のない怒りと、深い哀しみ。私闘がご法度なのは重々承知であるが、伊東の仇を何としても取りたかった。
鈴花は無我夢中で抜刀し、大石に斬りかかろうとする。
大石はそれをいとも容易くかわす。鈴花に刀を向けられても、自らのそれで払いのける。だが、何故か斬りかかって来ようとはしない。
(どうして……?)
鈴花は怪訝に思いつつ、それでも休むことなく刀を振る。
しだいに疲れが溜まってきた。全身に汗が噴き出し、刀を持つ手も限界に近付いていた。
その時、ほんのわずかな隙を突いて、大石は手刀で鈴花の刀を叩き落した。
一瞬のことに、鈴花は瞠目したまま刀を握っていた手を眺めていた。
「まだまだだね」
大石はそう言うと、自らの刀を鞘に戻した。
「俺は弱い者には興味がない。確かに、お前は普通の女よりは強いかもしれないが、男の中にいてはてんで下っ端だ。俺とまともにやり合いたければ、もっと鍛錬することだな」
呆然としている鈴花を尻目に、大石は踵を返した。
「あ、そうだ」
大石は背を向けたまま、はたと足を止めた。
「今日のことは近藤さん達には内緒にしておいてやるよ。どのみち、俺にとっても都合の悪いことだしね」
そう言い残し、大石は今度こそその場を立ち去った。
暫しの間、鈴花はその場に立ち尽くしていたが、やがて我に返り、地面に落とされた自分の刀を手に取った。
「私は……、何を……」
ずしりとした重みを感じながら、今までしようとしていたことを改めて振り返る。
仇討ちなど、何という馬鹿げたことをやろうとしてしまったのだろう。冷静になって考えてみれば分かる。平和を愛する伊東は、そんなことは微塵も望んでいない。それどころか、大石とやり合った鈴花を軽蔑しているかもしれない。
(伊東さん……)
鈴花は再び、伊東の前に跪いた。相変わらず、目は閉じられたままである。
「ごめんなさい……」
無意識に謝罪の言葉が口を突いた。どんなに大石を憎んでも、どんなに伊東の死を哀しんでも、伊東は二度と還って来ない。
それならば、出来る限り伊東を手厚く葬ってあげたい。
「伊東さん……」
鈴花は伊東の頬に優しく触れた。
「ゆっくりと、眠って下さい……」
そう告げると、鈴花の瞳から、また新たな雫がゆっくりと流れ落ちた。
【初出:2008年11月26日】