私はどれだけ、生死の境をさ迷い続けていただろう。
不逞浪士に斬られた瞬間、私はもう、自分でも助からないと感じていた。
新選組に入隊した時から、死ぬ覚悟はいつでも出来ていた。でも、意識が薄らいでゆくにつれ、私の脳裏にはあの人の優しい微笑みが浮かんだ。
死に対する恐怖心が襲ってきた。
もう、あの人の温もりを感じられなくなると想ったら――
◆◇◆◇
辺りが夜の帳に包まれた頃、その人は静かに私の部屋を訪れて来た。
「桜庭君、入りますよ」
その人――伊東さんはそっと障子を開ける。
「食事と薬を持って来ましたよ。起きられますか?」
「ええ……」
私はゆっくりと身体を起こす。
まだ、傷が引き攣れる感覚がする。それでも前に比べるとだいぶ楽になっている。やはり、伊東さんの処置が良かったためなのだろう。
「熱いですから、気を付けて食べなさい」
伊東さんはそう言って、私にお粥の入った茶碗と匙を手渡す。
私はそれを、手で包み込むように持つ。そして匙で掬うと、火傷をしないよう、冷ましながら口へ運んだ。
伊東さんはただ、それを黙って見つめている。
最初は気にしないようにしていたのだけど、やはり、食べているところを凝視されるのはとても気まずい。
「――伊東さん……」
「はい?」
「あの、あまり見ないでくれませんか……?」
「何故ですか?」
「えっと……、恥ずかしい、ですから……」
俯きながら私が言うと、伊東さんから忍び笑いが聴こえてきた。
「何を言うかと思えば……。本当に君は可愛い人だ」
臆面もなく言う伊東さんに、私の身体はすっかり火照ってしまった。
最近、伊東さんはこうして私をからかうことが多くなった。彼曰く、反応が面白いからだそうだが、からかわれる私は本当に身が持たない。
でも、それを責める気持ちも全くない。それもまた、愛情表現のひとつだと分かっているから。
「でも、元気になったようで安心しましたよ」
先ほどまでの笑いを引っ込め、伊東さんは真面目な顔付きで言った。
「桜庭君が斬られたと訊いた時は、本当に気が気でなかったです。こんなことを言ったら怒られるかも知れませんが、血の気を失った君を見た瞬間……、私は絶望のどん底まで落とされてしまった。もし、君があのまま助からなかったら、私も……」
伊東さんの表情が、苦しげに歪んでいた。
私はいつもそうだ。伊東さんを愛しているのに、愛されているのに、何もしてあげられない。ただ、与えられる愛情を受け止めるだけ。
「――伊東さん……」
私は俯きながら口にする。
「私は、あなたに何が出来るんでしょう……?」
「急にどうしたんですか?」
「ただ……、私は伊東さんに、何ひとつ与えられるものがないから……。そう思ったら、とても哀しい気持ちになって……」
私は顔を上げ、真っ直ぐに伊東さんを見つめた。
「教えて下さい! 私はどうしたら伊東さんを苦しめずに済むんですか?」
不意に、伊東さんが私を包み込んだ。
怪我をしているから気遣ってくれているのだろうか。壊れ物を扱うように、そっと抱き締められた。
「桜庭君」
耳元に、伊東さんの吐息を感じた。
「私は、君に苦しめられたことなど一度たりともありませんよ。むしろ、幸せをたくさん与えられた。――そして、君とこうしていることが、私にとっては最高の喜びです。桜庭君、君には感謝していますよ」
「感謝だなんて……」
伊東さんの言葉は素直に嬉しかった。
心の奥底で感じていた不安。でも、それは今、完全に払拭された。心から、伊東さんを信じることが出来る。
「君となら、どこまでも羽ばたき続けられると信じています。これからも、ずっと私の隣で笑い続けていてくれませんか?」
優しく紡がれる伊東さんの声。
私はゆっくりと頷いた。そして、少し躊躇いながらも伊東さんの背中に腕を回す。華奢な身体付きからは想像出来ないほどの広い背中に、私は子供のように安心する。
「さて」
しばらくして、伊東さんの身体が離れた。
「あまり無理をさせてはいけませんからね。私はそろそろ失礼しますよ」
「え……」
私は顔を歪める。困らせてしまうのは分かっていたのに、それでも伊東さんを引き止めたかった。
そんな私に、伊東さんは微苦笑を浮かべる。
「大丈夫ですよ。君も私もまだ生きているのですから、また明日も逢えます。それに、私が約束を違えたことが今までにありましたか?」
「いいえ」
「でしょう? だから、今日はもう休みなさい」
「――分かりました」
私が答えると、伊東さんは今度は嬉しそうににっこりと微笑む。
「それじゃあ、お休みなさい」
「はい、お休みなさい」
伊東さんは殻になった茶碗と湯飲みを持ちながら、部屋を出て行った。
再び、静けさが戻ってきた。
私は布団に横になり、瞳を閉じた。そして、まだ見ぬ未来に祈りを託す。
この幸せが壊れぬよう。
伊東さんと共にいられるように――
【初出:2007年12月6日】