全身の異常なまでの怠さを覚えながら、アシㇼパは目を覚ました。
昨晩はどれほど杉元に愛されただろう。初めての時は一度しか抱かれなかったのに、急に何かに取り憑かれたように何度もアシㇼパを求めてきた。
杉元に抱かれるのは嬉しいから想いに応えたい。しかし、限度というものがある。
執拗に責め続けられるうちに、アシㇼパの意識は遠のいた。夢と現をさ迷う中で、杉元がアシㇼパの名を呼んでいるのを耳にしたような気がする。
アシㇼパは隣で眠っている杉元に視線を向けた。相変わらず、よくいびきをかいている。
そして、ふと気付けば、アシㇼパも杉元も全裸ではなかった。アシㇼパが意識を失っている間に杉元が服を着せてくれたらしい。その辺は律儀だな、と改めて感心してしまう。
アシㇼパは恨めしさと愛おしさ、半々の想いを抱きながら杉元の胸元に顔を埋めてみる。シャツ越しに聴こえてくる規則正しい心音に、ホッと心が安らぐ。
「結局憎めないんだよ、杉元のこと……」
ひとりごち、さらにぴったりと寄り添った。ほんのりと汗の匂いがする。正直、いい匂いとはお世辞にも言い難い。しかし、杉元の匂いだと思うと、つい嗅いでしまう。昨晩の杉元と同じようなことをしている。
そうしているうちに、杉元がわずかに身じろぎした。アシㇼパがハッとして顔を上げると、寝惚け眼の杉元と目が合った。
「――ああ……、アシㇼパさん……」
気怠そうに、「おはよう」と挨拶してきた。
「おはよう、杉元」
アシㇼパも杉元に返し、微笑みながら頬に触れた。
杉元も小さく笑みを浮かべている。アシㇼパの髪を撫でながら、軽く口付けてきた。
「――大丈夫?」
杉元の問いに、アシㇼパは、「何が?」と訊き返す。杉元は少し言い淀んでから、おもむろに口にした。
「昨晩は調子に乗って何度もアシㇼパさんを抱いてしまったから……。アシㇼパさん、意識を飛ばしちゃっただろう? その……、身体とか……、しんどくなってないかな、って……」
「ああ」
アシㇼパは思わず苦笑いしてしまう。冷静さを取り戻した今、杉元は昨晩の自分の行為を酷く反省しているようだ。
「正直、凄くしんどい」
「――やっぱそうだよね……」
気まずそうにしている杉元に、アシㇼパは、「でも」と言葉を紡いだ。
「杉元にたくさん愛されたのは嬉しかった。杉元のああいった一面は見られるもんじゃない」
「そりゃあね。俺もアシㇼパさんにしか欲情しないし」
ばつが悪そうにしていたわりには、平然と恥ずかしくなることを言ってのけてくる。本当にこの男は、ふたりきりの時はどこまでアシㇼパに甘いのだろうか。
だが、不意に考えてしまうことがある。アシㇼパにとっては杉元が初めての男だが、杉元はどうだろう。経験豊富、とまではいかないだろうが、全くないわけでもなさそうだ。
「――何人と寝た?」
つい、訊いてしまった。
杉元は最初、質問の意図が掴めなかったようだ。少しばかり怪訝そうにしていたが、ようやく理解すると、みるみる眉間の皺が深くなった。
「――そんなの知ってどうするの……?」
少々怒ったような口調に、アシㇼパはさすがに怯みそうになったが、なおも重ねて訊ねた。
「何となく気になっただけだから訊いたんだが? 女性を抱くのに慣れてないって言ってたわりには、ある程度は女を知っているようだったから。全くの未経験ってわけじゃないだろう?」
杉元はあからさまに困惑している。答えたくないのだろうか。そう思っていたが、諦めたようにおもむろに重い口を開いた。
「――あるかないか、って言われれば……、あるよ。けどね、俺が本当に好きだと思って寝たのはアシㇼパさんだけだ。アシㇼパさんと出逢ってからはそういうことはいっさいしなかった。そもそも白石ほど女遊びに興味なかったし……、ってなに言わせんの……」
杉元から盛大な溜め息が出てきた。
言いたくなかったであろうことを無理に言わせてしまった申し訳なさと、半面で、杉元がどれほど真面目に自分を想ってくれていたのかを再認識出来たことで、アシㇼパは安堵した。
「良かった……」
自然と口から出た。
「杉元にとっては私が一番ってことだよな?」
「当たり前でしょう。これからもずっと、アシㇼパさんしか抱く気はない」
そう言いながら、杉元はアシㇼパの身体を強く抱き締めてきた。
「アシㇼパさんも俺以外の男に心を動かしちゃダメだよ? まあ、ないとは思うけど、念のためな……」
「うん」
アシㇼパはまた、杉元の匂いを嗅いでみる。やっぱり汗臭い。けれど、その汗臭さが堪らなく愛おしい。
「私は杉元だけのものだ、ずっと……」
少し落ち着いてから、アシㇼパと杉元はコタンへと戻った。本当は歩くのが辛かったが、杉元に甘え過ぎるのは良くない。
杉元は心配してアシㇼパを抱き上げようとしてくれたが、アシㇼパはあえて拒否した。荷物になってしまうことに罪悪感があったのはもちろん、抱っこされながら帰ったとなれば変に詮索されてしまう。確かに、オソマの期待通りのことをしてしまったのだが。
アシㇼパをチセに送り届けてから、杉元は何か獲ってくるからと再び出かけた。正直、杉元の射撃の腕にはあまり期待していないが、それを本人に面と向かって言うわけにはいかないから黙っていた。何より、アシㇼパを気遣ってくれているからこそ、一緒に連れて行こうとしなかったのも分かっていた。
アシㇼパはひとりで時間を持て余していた。こういう時、編み物でも出来れば良いのだろうが、あいにくとそういった女の仕事は苦手だ。対照的に杉元は裁縫を器用にこなすから、その才能は少し妬ましく思うことがある。
「あれ、アシㇼパ帰ってたの?」
聞き覚えのあり過ぎる少女の声に、アシㇼパの心臓は跳ね上がる。なるべくなら、今は顔を合わせたくなかった。
そんなアシㇼパの気持ちを知ってか知らずか、少女――オソマはチセに上がり、無邪気にアシㇼパに駆け寄って来た。
「杉元ニシパは? 一緒じゃなかったの?」
「――あいつは山に行った」
「そうなんだ」
オソマはアシㇼパの隣にちょこんと正座した。
「で、昨晩はどうだったの?」
興味津々で訊ねてくるオソマに、アシㇼパは、やっぱりな、と小さく溜め息を吐いた。だから顔を合わせたくなかったのだ。
「――どうもしない。いつも通り食べるもの食べて寝ただけだ」
つい、投げやりな口調になってしまった。が、これがかえってオソマの妄想を掻き立ててしまったらしい。
「分かりやす過ぎだよ、アシㇼパ! ほら、顔に出ちゃってるし」
アシㇼパを指差しながらケラケラと笑う。失礼な奴だな、と思いながら睨むも、オソマは全く堪えていない。もっと幼い頃ならすぐに泣き喚いていたくせに。
「まあでも良かったんじゃない? 杉元ニシパのことだから、何かしらきっかけがなければアシㇼパを抱けなかったんだろうし。アシㇼパだってそうでしょ? 杉元ニシパがなーんにもしてくれないから、相当ヤキモキしてたでしょ?」
図星だ。本当にオソマは嫌になるほどよく分かっている。
「ついついからかっちゃったけど」
オソマは打って変わって真面目な面持ちになった。
「私だってこれでもふたりのこと気にしてたんだよ? 五年前からずっと一緒にいて、当たり前のように行動を共にしてたのに、何の進展もなかったんだもん……。だからさ、杉元ニシパが重い腰を上げてくれたのは、私も自分のことのように嬉しかったんだ。アシㇼパは私にとって、大切な従姉であってお姉ちゃんでもあるから」
そこまで言うと、オソマがアシㇼパに体重を寄せてきた。鬱陶しいとは思わなかった。むしろ、オソマの優しさを感じて嬉しかった。
「杉元ニシパと早く一緒になれるといいね、アシㇼパ。杉元ニシパならばいい旦那さんになれるし、父親にもなれるよ、絶対」
「――そうだな」
アシㇼパにようやく笑顔が戻った。オソマの言う通り、杉元ならば、アシㇼパも未来に産まれるであろう子供のことも大切にしてくれるだろう。
「――オソマ」
アシㇼパは不意に思い、オソマに訊いた。
オソマは小首を傾げている。
「ん、どうしたの?」
「――お前、裁縫は得意か?」
「裁縫? うーん……、フチに教わったから、人並みには出来ると思うけど?」
それが何か、と言わんばかりにアシㇼパに視線を注いでくる。
アシㇼパは少し考え、意を決してオソマに言った。
「私に、裁縫を教えてくれないか……?」
オソマはしばらく目を見開いていたが、質問の意図を察してくれたようで、嬉しそうに満面の笑みを浮かべた。
「いいよいいよ! 杉元ニシパ、絶対喜んでくれるよ! ああでも、私よりもフチに教わった方がいいんじゃない?」
「まあ、そうかもしれないが……」
「じゃあ、ふたりで頑張ってやろう! そうと決まれば、杉元ニシパには内緒でやっちゃわないと!」
オソマは意気揚々と話を進めた。
「私のアチャにも話を通しておくよ。アチャもアシㇼパ達のことを気にしてたし、喜んで協力してくれるよ、絶対!」
話があっという間に膨らんでゆく。そんなつもりはなかったのだが、オソマぐらい行動力がある方がちょうど良いのかもしれない。
杉元に対し、女らしいことをしたことは一度もない。初めて逢った時から山で生き抜くための知識は教えてきたが、それぐらいだ。しいて言うなら料理だろうか。
正直なところ、アシㇼパは形式など気にしていない。だが、杉元は対照的に律儀で、和人なのにアイヌの伝統文化を重んじる傾向がある。そんなところも、アシㇼパが杉元を好きになった理由のひとつではある。
裁縫が苦手、などと言っていられない。杉元だって、苦手なことを苦手なりにやっているのだ。少し見習わないと。
(射撃が下手とか馬鹿にしちゃダメだな、これからは……)
アシㇼパのために狩猟に出ている杉元を想い、アシㇼパはひっそりと口許に弧を描いた。
【2024年11月9日】