アシㇼパを抱いてから一月ほど経過した。あの時のことは夢だったのでは、と思うことがあるが、直に感じた肌の温もりははっきりと残っている。
想像通り、アシㇼパは綺麗だった。雪のように透明感のある白さと柔らかさは、ごつごつとした身体の杉元とは対照的だった。そして何より、杉元に抱かれ、初めての痛みに耐えながらも想いに応えようとしてくれるアシㇼパが愛おしくて仕方なかった。
今、アシㇼパは隣でぐっすりと眠っている。あまりも無防備な姿に、うっかり手を出しそうになってしまうが、チセの中にはふたり以外にも人がいる。みんな寝静まっているとはいえ、油断は出来ない。
杉元は不意に、自らの股間に触れた。あの夜のことを想い出してしまったせいだろうか。硬くなっているのが布越しにも分かる。
こうなると収拾が着かなくなる。少し悩んだ揚げ句、杉元はなるべく音を立てぬようにチセを出た。
外に出て、コタンから離れた杉元は、人目がないことを確認し、木に寄りかかる格好で座り込みながら自らを慰めた。
切なげに見つめるアシㇼパの表情が、突き上げるたびに可愛く鳴く声が、杉元を昂らせる。自慰をしている最中は無我夢中で、あの夜のこと以外は考えられない。しかし、達してしまうと急に虚しさを覚える。
アシㇼパを抱く前から自慰をすることは何度かあったが、やはり、出してしまうと同じような喪失感に見舞われた。
「最悪だ……」
ひとりごちながら後始末をする。服が汚れないように気を遣ったつもりだから精液は付着していないと思うが、臭いで気付かれはしないだろうか。
また、アシㇼパを抱きたい。しかし、きっかけが作れずにいるから、結局はひとりで同じことを繰り返しては自己嫌悪に陥ってしまう。
翌日、アシㇼパは従妹のオソマと朝から出かけて行った。たまには女同士で過ごしたいから、とオソマから杉元にお願いされた。
もちろん、杉元は快く了承した。オソマがアシㇼパと同性だからというのはもちろんあるが、昨晩、アシㇼパのことを想いながら自慰してしまった気まずさもあったから、かえってアシㇼパとふたりきりにならなくて良かった。
ふたりが出て行ってから、杉元は外套の修繕作業をしようと思い立った。気付けば所々にほつれや破れがあり、釦も取れかけている。
木を彫るのは苦手だが、裁縫は得意な方だ。戦地に赴いていた時も自ら着衣の直しをしていたから、針を持つのは慣れたものだった。
チセの片隅で黙々と外套を繕っていると、アシㇼパの叔父であるマカナックルが入って来た。
「よくやるなぁ」
裁縫している杉元を揶揄するというより、むしろ感心するようにマカナックルが言う。
「本来ならば女の仕事なんだが。まあ、杉元さんは好きでやってるんだろう?」
「これぐらいしか取り柄がないから」
話しかけられても、杉元は手を休めない。
「もう少し俺が器用だったら、アシㇼパさんのためにマキリを彫って贈りたいけど……。まだ、上手くやれる自信がないし……」
「本当に、杉元さんとアシㇼパは正反対だな」
マカナックルが杉元の隣に腰を下ろした。
「アシㇼパは男のすることは器用にこなすが、裁縫はからっきしだからな。幼い頃から父親と野山を駆け回っていたせいもあるだろうが」
「けど、そのお陰で俺はアシㇼパさんに山で生き抜く術を教えてもらえた」
「そうだな。あの子は幼い頃からその手の知識は長けていた。だが、それはそれで周りは心配していた。――杉元さんが現れるまではな」
気になる部分は全て修繕が終わった。杉元は歯で糸を切り、縫い針を針入れに戻した。
「杉元さん、あんた、いい加減アシㇼパと身を固める気はないのかい?」
やはりそうきたか、と思った。この五年、ずっと宙ぶらりんのままにしていたから、アシㇼパ本人だけではなく、周りもずいぶんとやきもきしていた。気付いてはいたが、あえて知らんふりを貫いていた。
「アシㇼパは形式なんて気にしない。マキリだって、追い追い渡せばいい。あんたのことだから、真面目に考え過ぎているんだろうがな」
図星だ。確かに、一月前に身体は重ねたものの、結婚はもう少し先にしようと思っていた。せめて、マキリをちゃんと彫れるようになるまでは、と。
「――好きだけじゃ、どうにもならないこともある……」
杉元は訥々と語り出した。
「確かにあんたの言う通り、アシㇼパさんはマキリのことなんて気にしてないと思う。けど、それだけじゃない……。アシㇼパさんには、もっと違う幸せを手に入れてほしかった……」
「今はどうなんだ?」
「――今は……、アシㇼパさんと一緒になりたい。アシㇼパさんが俺以外の男と一緒になるなんて、耐えられそうにない……」
「そこまで気持ちがはっきりしてるなら、何も悩むことはない」
マカナックルは口元に笑みを湛えながら、杉元の肩を軽く叩いた。
「で、アシㇼパにはあんたの気持ちを伝えてあるのかい?」
マカナックルに問われ、杉元はゆっくりと首を縦に動かした。
「一生添い遂げてほしいと俺が伝えたら、アシㇼパさんも応えてくれたよ。ずっと俺と一緒にいる、って」
「なんだ、そこまで進展してたのか」
マカナックルは大仰に溜め息を漏らした。
「まあでも、よくよく考えたら、最近のアシㇼパは急に女らしくなった気がするな。特に一月前辺りから」
この発言に杉元の心臓が跳ね上がった。どこまで鋭いのか、この叔父は。
「オソマは特に、アシㇼパの変化にすぐ気付いていた。同じ女だしな。アシㇼパをもっと磨き上げてやりたいって張り切ってたぞ?」
「そうなのか……?」
「杉元さんもアシㇼパも、思ったことがすぐに顔に出る。その辺はあんたら似た者同士だな」
ここまで言われると、もう返す言葉が見付からない。これ以上詮索されては堪ったものではないと、軍帽を目深に被り直した。
「よけいなことかもしれないが」
マカナックルが急に畏まって続けた。
「アシㇼパを頼むぞ? アシㇼパの笑顔を守れるのは杉元さん、あんた以外にいない」
杉元はチラリとマカナックルの顔を覗う。マカナックルは神妙な面持ちで杉元に視線を注いでいた。
「――ああ」
本当にアシㇼパは周りから愛されている。それが微笑ましく思い、自然と杉元の口許が綻んだ。
陽が傾きかけた頃、アシㇼパとオソマが帰って来た。
「杉元ニシパ、アシㇼパ借りちゃってごめんねぇ?」
屈託なく笑うオソマに、杉元もつい釣られて小さく笑みを浮かべた。
それにしても、女の子の成長は早いものだとつくづく思う。アシㇼパに連れられ、初めてコタンを訪れた時は甘えん坊で泣き虫な子だったのに、今ではだいぶ女性らしくなった。もちろん、杉元はアシㇼパ以外の女性は全く眼中にないのだが。
「楽しんできたかい?」
杉元が訊ねると、オソマは、「うん!」と元気に返してきた。
「最近じゃ、アシㇼパとゆっくり過ごすことって少なくなったからねぇ。ふたりの邪魔しちゃ悪いな、っていっつも思ってるから」
「そんなに気を遣わなくていいのに……」
「遣うよぉ。だって、アシㇼパが杉元ニシパとずーっと一緒にいたがってるもの、どう見たって」
「お、おい……!」
今まで黙っていたアシㇼパが、初めて会話に割って入ってきた。オソマの発言に、アシㇼパはあからさまに動揺している。
「よけいなこと言うな! べ、別に私は……、そこまでべったりしたい……、わけじゃ……」
そう口にするアシㇼパの顔は、朱く染まっている。
杉元も内心、落ち着かなかった。日中、マカナックルと話したせいもあるのだろうが、オソマからどんな爆弾発言をされるのかと冷や冷やしていた。
そして、当のオソマは、杉元とアシㇼパを交互に見ながらニヤニヤしている。
「ま、そんなわけだから、あとはふたりの時間を過ごしなよ。邪魔しようなんて無粋なことは考えてないから」
あの幼かった子が、ここまでませてしまうとは。杉元は額に手を当て、盛大に溜め息を吐いてしまった。
オソマはアシㇼパを杉元の隣に無理矢理押し付けてきたかと思ったら、ふたりの背中を押してくる。一緒にチセから出ていけ、と言わんばかりに。
「ま、待てって。手ぶらで出るわけにいかないから」
オソマの強引さに、杉元は半ば諦め、背嚢と小銃を持つとアシㇼパとチセを出た。
チセから追い出された杉元とアシㇼパは、コタンから一番近くにあるクチャへと向かった。すでに夜が更けているから、もうそこ以外に行く場所がない。
「――オソマめ、よけいなことばっかり……」
杉元と並んで歩いていたアシㇼパが、ボソッと呟いた。
「――なんか、変に気を回されてしまったな……」
杉元が言うと、アシㇼパも、「全くだ」と少々怒ったような口調で返してきた。
「私は別に何も言ってないぞ? あのにあいつ、変に勘だけは鋭い。一緒にいる間、一月前に函館に行った時に……、杉元ニシパと絶対やったでしょう、どうだったの、ってしつこく訊いてきた……」
まさかとは思ったが、アシㇼパも杉元と同様――いや、さらに激しい質問攻撃を食らっていたようだ。似た者父娘と言うべきか。
「――俺とアシㇼパさんって、思ったことが顔に出やすいらしいよ……」
杉元がマカナックルに言われたことをそのまま伝えると、アシㇼパは、「そうなのか?」と眉をひそめた。
「杉元はともかく、私はそれほどでもないと思うが……」
「いやいや! アシㇼパさんだって充分分かりやすいって」
「――馬鹿にしてるのか?」
「そんなわけないでしょう。むしろ俺の方がアシㇼパさんに馬鹿にされてる気がするんだけど?」
ふたりで押し問答を繰り返す。もしかしたら、こういうところも似ていると思われているのでは、と杉元はふと気付いた。
「――埒が明かないな」
先に折れたのは、意外にもアシㇼパの方だった。
「とにかく、早くクチャに行こう。松明があるとはいえ、暗くて周りが見づら……」
アシㇼパが足を速めようとした時だった。何かに躓いた。
「危なっ!」
杉元は咄嗟に、松明を持つ反対側の左腕でアシㇼパの身体を抱き止めた。
アシㇼパは転倒を免れた。が、そのまま固まって動かなくなった。
「す、すまない……」
謝罪を口にするアシㇼパに、杉元は心配になり、「大丈夫?」と矢継ぎ早に訊ねる。
「怪我してない? 痛い所とかない?」
「――平気だ。杉元が庇ってくれたから何ともない」
ありがとう、と礼を言い、アシㇼパは杉元から離れようとした。
しかし、杉元はアシㇼパを片腕で強く抱き締めたままでいた。
「杉元……、本当に大丈夫だから、いい加減離してくれないか……?」
困惑しているアシㇼパを目の当りにしたら、少し意地悪したくなってきた。
「離したくない、って言ったらどうする?」
こんなことをするつもりはなかったのに、場の雰囲気に流されてしまったのか、杉元は自分でも驚くほど大胆なことを囁いていた。
案の定、アシㇼパは絶句している。大人しく杉元に抱かれたままでいたが、やがて、「ここじゃ嫌だ……」と消え入りそうな声で返してきた。
「誰かに、見られるかもしれない……」
こんな夜更けに人がいるとは思えない。しかし、杉元もさすがに意地悪が過ぎただろうかと、少しばかり反省した。
「したい?」
杉元の問いに、アシㇼパは一瞬だけ躊躇い、小さく頷いて見せた。
アシㇼパに意思表示させることが出来た杉元は満足だった。アシㇼパを解放し、代わりに手を握った。
アシㇼパを今すぐ抱きたい。そんな逸る気持ちを抑えつつ、クチャへと向かった。
【2024年10月5日】