闇へ落ちる夢は、今でも時々見る。最初は恐怖を感じ、しかし、必ず杉元が手を差し伸べ、抱き締めてくれるから、共に地獄へ落ちることに嬉しささえ覚えた。
アシㇼパよりも人を殺してきた杉元は、もっと怖い思いをしてきたかもしれない。実際、隣で寝ていると、うなされている声を耳にすることがよくあった。
だが、近頃ではそんなこともなくなっているようだ。気持ち良さそうにいびきをかき、たまに放屁している。好きでもない男であればストゥでぶん殴って叩き起こしてやるところだが、惚れた弱みというやつか、それすら許せてしまい、何なら愛おしくさえ想える。
そんな杉元は、アシㇼパを抱き締めながら爆睡している。チセでは誰かしら近くにいるからあえて距離を置いて寝ているが、クチャでふたりきりの時は、たくさん接吻して、こんな風に互いを温め合いながら眠りに就く。
まだ、身体を重ねてはいない。何度もその機会はあったのに、杉元の決心が着かないようだ。
「私は、いつでも待ってるのに……」
呑気に爆睡している杉元に話しかける。当然というべきか、返事は戻ってこない。
アシㇼパは恨めしく思いながら、杉元の身体に触れてみる。服越しにでも、引き締まり具合がよく分かる。一緒に旅をする中で実際に裸を見たことはあったが、あの時は成り行きだった。興味があったのも決して否定は出来ないが、今ほどではなかったと思う。
(もっと知りたい……)
アシㇼパの手が、杉元の下半身へと伸ばされる。経験はなくとも、周囲の女達から聞かされた話から、性交がどんなものかぐらいは何となく分かっている。
そっと弄っている間にも、杉元の中心部は硬くなってくる。以前、杉元が、男のあれは伸び縮みするものだと教えてくれたことはあったが。
(杉元とオチウすることになったら、これが私の中に……?)
硬さを増してゆくそれに、アシㇼパは徐々に怖くなってきた。同時に、とんでもないことをしてしまったことに今さらながら気付いた。
「どうしよう、これ……」
手を添えたまま、アシㇼパは途方に暮れた。このまま待っていれば自然と縮むだろうか。そう思い、時の経つのを待っていたのだが――
「うぅ……ん……」
小さく呻き声を上げた杉元が、目を覚ました。
「あ、アシㇼパさ……、え……?」
下半身に違和感を覚えたらしい。杉元はそちらに視線を注いだ。
そこにはアシㇼパの手が添えられている。ふたりの間にしばらく沈黙が流れたが、やがて、我に返った杉元の目が驚いたように見開かれた。
「ちょっ、何してんのっ?」
「ご、ごめん……。でも……」
そこでようやく、アシㇼパは下半身から手を退けた。
杉元はあからさまに困惑している。
「いや、いいけどさ……。でも、何だって俺のを……?」
「――い、いいのか……?」
恐る恐る訊ねるアシㇼパに、杉元は、「まあ」と自らの髪をクシャクシャと搔きながら続けた。
「アシㇼパさんに触られるのは別に……。けど、無闇に男の身体に触っちゃダメだよ?」
「――杉元以外の男には触ったりしない……」
「当たり前でしょう。そんなことしたら大問題だ……」
杉元は大仰に溜め息を吐くと、真顔でアシㇼパに視線を注いできた。
「――したかったの?」
アシㇼパは答えに窮した。だが、ここまできたら誤魔化しは利かない。
「したいに決まってる」
開き直ったとたん、投げやりな口調になってしまった。
「私はいつでも大丈夫なのに、杉元がいつまでもグズグズしてるから……。それとも、本当は私とやりたくないのか? 嫌なら嫌だとはっきり言え」
羞恥心はどこへやら、気付けば杉元に詰め寄っていた。
杉元は押し黙ってしまった。それでもアシㇼパから視線を逸らすことをせず、少ししてから、「嫌なわけないだろ」と諦めたように口にした。
「俺もこれでも考えてはいるんだ。いつまでも宙ぶらりんのままじゃダメだ、って。女性を抱くのに慣れてないってのもただの言い訳だって自覚もあるし……」
杉元の手がアシㇼパの頬を撫でる。そして、軽く口付けしてから、アシㇼパを自らの胸の中に埋めさせた。
「――今度、少し遠出しよう」
杉元が紡いだ言葉に、アシㇼパは目を見開いた。頭をもたげようとしたが、杉元の腕の力が強過ぎて身動き出来ない。
「初めてをこんな所でするわけにはいかない。かと言って、正式に夫婦になっているわけじゃないから俺達のチセはないし……。やっぱり、初夜は大事な儀式みたいなものだから、一応、体裁というか、ね……」
ここまで具体的に話してくれた杉元は初めてだった。儀式という表現はずいぶんと大袈裟だが、真面目な杉元らしい言い回しだとも思った。
「――本当に、してくれるのか……?」
杉元が適当なことを言うわけはないと分かりつつ、アシㇼパはおずおずと声で訊ねる。
杉元は気分を害した様子もなく、「ああ」と答えた。
「――正直、俺の方がアシㇼパさんを抱きたい。もちろん、無理はさせるつもりはないから」
杉元の声は優しかった。分かってはいたが、いい加減な気持ちでアシㇼパを抱こうとしていない。
わがままを言ってしまったことを申し訳なく思う。だが半面で、今度こそ杉元に抱いてもらえるのだと嬉しくなった。
「もうひと眠りしようか?」
アシㇼパを抱き締めたまま、杉元が囁いてくる。
「そうだな」
アシㇼパは小さく頷き、杉元の胸の中で目を閉じた。
◆◇◆◇
それから半月後、杉元はアシㇼパとの約束を守ってくれた。ただ、どこへ行くかは当日まで教えてくれなかった。
アシㇼパは、期待と不安、両方の想いを抱いていた。杉元に早く抱かれたい。けれど、抱かれたら飽きられてしまうのではないか、とも。
汽車に揺られながら、アシㇼパは杉元の隣で流れる景色を眺める。多少の不安はあるものの、旅はやはり気持ちが高揚する。
「大丈夫? 疲れない?」
杉元が声をかけてきた。
アシㇼパは杉元に向き直り、「大丈夫」と答えた。
「どこまで行くんだろうかって楽しみの方が大きい。疲れるどころか興奮してる」
「そうか」
「杉元はどうだ?」
「俺も。アシㇼパさんが一緒にいてくれるから嬉しい」
臆面もなく言われ、アシㇼパの心臓が跳ね上がった。幸い、アシㇼパ達の近くには人がいない。もしかしたら、人が疎らだったから歯の浮く台詞を平然と言ってのけたのだろうか。とはいえ、さすがに公衆の面前には変わりないから、手を繋いだり、ましてや抱き締めるなどという行為はしてこない。
(本当は、杉元の手を握りたいけど……)
そう思いながら、杉元の手元に視線を落とす。危うく手が出そうになったが、寸でのところで引っ込めた。
「どうした?」
杉元が心配そうにアシㇼパの顔を覗き込んでくる。
「やっぱり、疲れたんじゃない?」
「だ、大丈夫だ。大丈夫、だから……」
「そう……?」
なおも疑わしげにしていたが、大丈夫、としつこく何度も繰り返したら、杉元も諦めたらしい。
「大丈夫ならいいけど……。疲れたならちゃんと言うんだよ?」
まるで保護者のようだ。子供扱いされたようで内心面白くなかったが、グッと文句を飲み込んだ。
しばらく経って着いた場所は、函館だった。どうして函館なのか、と一瞬考えたが、杉元なりに思うところがあったのかもしれない。
函館といえば、金塊争奪戦の最終決戦となった場所だ。ここでどれほどの血が流れ、どれほどの人間が命を落としていっただろう。
「ごめんね」
汽車を降り、しばらく黙って歩いていたが、杉元が謝罪を口にしてきた。
「どうして謝るんだ?」
首を傾げながらアシㇼパが訊ねると、杉元は「いや」と少し言い淀みつつ続けた。
「ここまで連れて来てなんだけど……、アシㇼパさんには気分のいい場所じゃなかったかな、って思って……」
「そんなの今さらだろう」
ばつが悪そうにしている杉元に、アシㇼパは思わず微苦笑を浮かべた。
「確かに、ここでたくさんの尊い命が失われた。私の大切な人も犠牲になった……。辛いけれど、決して忘れてはならないことなんだ。杉元だってそう思ったから、改めてここに来るつもりだったんじゃないのか?」
そこまで言うと、杉元はわずかに目を見開いた。しばらくアシㇼパに視線を注ぎ続け、フッと笑みを零した。
「敵わないな、アシㇼパさんには」
杉元の手が、アシㇼパの髪にそっと触れた。
「あの時は、アシㇼパさんを守るために死ぬ覚悟があった。アシㇼパさんのためなら、怖いものなんてなかった。だから海に落ちた時、〈不死身の杉元〉の命運も尽きたな、って不思議と冷静に受け止めた。けれど……」
杉元はひと呼吸置いて、続けた。
「不意に浮かんだんだ。アシㇼパさんの哀しむ顔が……。また、アシㇼパさんをひとりぼっちにしてしまう。アシㇼパさんから笑顔を奪ってしまう。本当にそれでいいのか、ってもうひとりの自分が訴えてきた。――それからは、何としても生き延びてやるって必死になった。地獄行きの特等席にはまだ乗れない。全てが終わったら、今度こそ、アシㇼパさんと故郷で穏やかに暮らすんだ、って……」
杉元が、アシㇼパを肩越しに抱き締めてくる。項に柔らかく口付けると、耳元で囁いてきた。
「――俺と、一生添い遂げてくれるかい?」
「――そんなの、答えるまでもないだろう……」
アシㇼパは杉元の胸に顔を押し付けた。
「私は、どんなことがあっても杉元から離れてやらない。ずっと、杉元と一緒にいるんだ。――杉元が生きててくれて、どんなに嬉しかったか。だから……」
言いかけた言葉を、杉元の唇によって遮られた。突然のことに瞠目して受け止めてしまったが、ゆっくりと瞼を閉じた。
長くて、幸福に満ち溢れた接吻だった。杉元の愛を感じて胸がいっぱいになり、自然と涙が零れ落ちる。
ようやく唇が離れると、杉元はアシㇼパの涙を優しく指先で拭ってくれた。
「絶対、哀しませたりしないから」
「うん」
瞳を潤ませながらアシㇼパが微笑むと、杉元も釣られたように穏やかな笑みを返してきた。
「行こう?」
杉元はアシㇼパから身体を離し、代わりに手をそっと取る。
いよいよだ。アシㇼパは嬉しさと同時に緊張感を味わった。
【2024年9月18日】