アシㇼパから直球で催促されてしまった。正直なところ、杉元も心が揺れたが、何とか己を抑えた。
杉元自身、性欲の塊ではないと思っている。金を出してまで女を抱きたいという気持ちは皆無と言ってもいいほどで、過去に行動を共にしていた白石とは真逆だった。
とはいえ、全く経験がないわけではない。アシㇼパと出逢う前は、周りから強引に遊郭に引っ張られて行ったこともある。しかし、好きでもない女を抱いても何の感情も湧かず、結局は遊女にされるがままになっていた。
アシㇼパはもちろん違う。心から愛しているし、大切だからこそ軽々しく抱くことが出来ない。不意に、閉じ込めて誰の目にも触れさせたくない衝動に駆られることがあるが、アシㇼパを傷付けることはもっと怖いから、感情的にならないように自らを律している。
◆◇◆◇
翌朝、杉元はまだ日が昇りきらないうちに目が覚めた。すぐ側では、アシㇼパがぐっすりと眠っている。楽しい夢でも見ているのだろうか。その寝顔は幸せそうだ。
杉元はアシㇼパの唇に口付けし、しばらく寝顔を見つめていた。
アシㇼパを抱き締めて眠ることは昔もあった。ただ、昔と今とでは意味合いが違う。
人を殺せば、殺しただけ悪夢にうなされる。独りだった頃は眠ることが怖くて堪らなかったが、アシㇼパと出逢ってからは、少しずつ恐怖を克服出来た。
アシㇼパがいることで、杉元はどれほど救われただろう。アシㇼパの前では素直な自分になれるし、優しくもなれた。
「一緒に地獄へ落ちる覚悟、か……」
ひとりごちながら、アシㇼパが尾形を毒矢で射抜いた時のことを想い出す。全てを背負い込む覚悟をしつつも、初めて人に手を下したことへの罪悪感は残り続けていたことを杉元もよく分かっていた。
アシㇼパを自分と同じ地獄へ引きずり込むつもりはなかった。それなのに、金塊争奪戦が終結してから長いこと、心の距離を置きつつも側に居続けていたのは矛盾している。アシㇼパが業を煮やしてしまうのも仕方がなかったのかもしれない。
「……ん……」
アシㇼパが小さく呻いた。かと思ったら、閉じていた瞼がゆっくりと上がり、綺麗な蒼い双眸が姿を現した。
「おはよう」
アシㇼパの頬をそっと撫でながら挨拶すると、気怠そうではあったが、アシㇼパも「おはよう」と返してきた。
「起きてたのか……?」
「うん、ちょっと前にね」
「珍しいな。私より先に起きるなんて……」
「まあ、そんな時もあるさ」
杉元は目を細めながら、アシㇼパに軽く接吻した。
「どんな夢を見てたの?」
杉元が訊くと、アシㇼパがわずかに目を見開いた。
「どうして?」
「寝顔が幸せそうだったから。いい夢でも見てたのかな、ってちょっと気になった」
「いい夢……。うん、そうかもしれない……」
アシㇼパは杉元の胸元に額を寄せ、訥々と語り出した。
「――深い、闇に落ちてたんだ……」
いい夢、と言っていたのに、ずいぶんと物騒だ。杉元は口を挟みそうになったが、どうにか言葉を飲み込んだ。
「底が見えなくて、どこまでも深くて……。怖くて、不安で……。ああ、私は人を殺した罪で地獄へ落されてるんだ、って気付いて……。このまま、永遠にひとりでこのまま落ち続けるんだ、って思ってたら……」
アシㇼパはひと呼吸置いて、続けた。
「私の前に、手が差し伸べられたんだ……。その手は、よく知ってる手だった……。私を、いつも優しく包み込んでくれた……」
そこまで言うと、アシㇼパの手が杉元の手甲に重ねられた。
「気付いたら、私は杉元に抱き締められていた……。俺と一緒に行こう、って……。杉元は私にそう囁いてくれた……。ずっと、アシㇼパさんを離さないから、って……」
アシㇼパは頭をもたげた。杉元に真っ直ぐな視線を注ぎ、小さく微笑んだ。
アシㇼパから夢の話を聴いた杉元は、唐突に過去のことを想い出したのはこのせいか、と妙に納得した。恐らく、無意識のうちにアシㇼパの夢が杉元に伝播したのかもしれない。
「今でも平気? 俺と地獄に落ちるのは……」
杉元の問いに、アシㇼパは、「うん」と小さく頷いた。
「平気か、と言われれば平気じゃないかもしれない。でも……、杉元が一緒なら怖くない」
「そっか」
杉元は短く答え、重ねられていたアシㇼパの手を握った。
アシㇼパは先ほどにも増して幸せそうな笑顔を見せ、杉元に唇を押し付けてきた。
アシㇼパからの接吻は初めてだった。予想外のことに杉元は驚いたが、アシㇼパの想いに応えようと、強く抱き締めながら深い口付けをした。舌が絡み合い、静まり返ったクチャの中に水音が響く。
(このまま、抱きたい……)
理性が崩壊しそうになる。アシㇼパも望んでいるのならいいのではないか、と。
しかし、グッと堪えた。暴走しかけた感情を抑え、ゆっくりとアシㇼパから唇を離した。
「――まだ、ダメなのか……?」
恨めしそうに訊ねるアシㇼパに、杉元は、「ごめん」と謝罪した。
「――アシㇼパさんを、泣かせたくない……」
「――怖いのか?」
「そうだね……」
アシㇼパからの視線に耐えられなくなった杉元は、自らの胸の中に顔を埋めさせた。
「昨晩も言ったと思うけど、俺は女性を抱くことに慣れてないから……。それに……、優しくしたいけれど、今は出来そうにない……」
言いながら、杉元は何度も小さく深呼吸を繰り返す。アシㇼパは男を知らないから、身体の中心部分に変化が起きていることに気付いていなさそうだったのが幸いだった。
「――ちょっと、用を足してくる」
名残惜しさはあったが、抱き締めていた腕を緩め、アシㇼパを解放した。
振り返りもせずクチャを出る杉元に対し、アシㇼパは何も言わなかった。
陽が昇り、クチャを出てから、杉元とアシㇼパはコタンへと向かった。その間、ふたりに会話はほとんどなかった。用を足すという名目でアシㇼパを無視するように外に出たことに、もしかしたら不信感を抱いているのかもしれない。
ただ、その詳細を説明するわけにはいかない。そういうところは男は厄介だとつくづく思う。
「――軽蔑したんだろ……?」
それまで無言だったアシㇼパが、おもむろに口を開いた。
杉元はわずかに身体をピクリとさせ、恐る恐るアシㇼパに視線を向けた。
「私が、しつこいから……」
「いや、そういうのじゃないから……」
慌てて否定するも、アシㇼパはなおも疑わし気に杉元を睨んでいる。
「本当に、軽蔑してないか……?」
「してない。てか、本当に急にあの時は催してきただけだし」
「――結構長くなかったか?」
「――オ、オソマだよ……」
結局、嘘を吐いた。己の雄を鎮めるためとは口が裂けても絶対に言えないから、腹が下ったと思われる方がまだ良い。
アシㇼパはジッと杉元に視線を注ぎ続ける。嘘を見破られはしないか。そんな不安が過ぎったが、やがて、小さな溜め息を漏らした。
「急に催すことはあるしな。でも、もう大丈夫なのか?」
今度は心配そうに訊ねてくる。これはこれで良心が痛んだ。
「大丈夫。お陰さまでスッキリしたよ」
答えながら、違う意味でスッキリしてごめん、と心の中で謝罪する。
「それなら良かった」
アシㇼパにほんのりと笑顔が戻った。罪の意識は残っているものの、杉元もホッとして口許に笑みを湛えた。
「あ」
唐突に、アシㇼパが小さく声を上げた。
「どうした?」
「ユクがいる」
「え、どこ?」
「あそこだ」
アシㇼパの指差す先に目を凝らすと、確かに言う通り、鹿が一頭いた。だが、まだ小さい。
「親と死に別れたか、はぐれたか……」
アシㇼパは独り言のように口にし、弓矢を番える。
「待って」
杉元が制止すると、アシㇼパが軽く睨んできた。
「どうした? また、可哀想だとか思って同情してるのか?」
「そうじゃない」
杉元は首を横に振り、肩に担いでいた小銃を下ろした。
「俺にやらせて」
アシㇼパは驚いたようにわずかに目を見開いた。だが、すぐに嬉しそうにニコリと笑い、「やってみろ」と促した。
とはいえ、杉元の射撃の下手くそさは自他共に認めている。それでも、今は妙な意地が働いた。たまには、アシㇼパに格好良いところを見せたいと思ってしまったのか。
銃に弾薬を装填してから、杉元は気配を悟られぬよう、静かにゆっくりと鹿に近付いてゆく。今日こそは一発で仕留めたい。なるべく、苦しませる時間を少しでも短くするためにも。
鹿は草を食べるのに夢中になっている。杉元に気付いている様子がない。
(頼むから、そのまま気付かないでくれよ……)
杉元は息を飲んだ。銃を構え、鹿に狙いを定める。
銃声が響き渡った。
「やった……」
杉元の想いが叶った。見事に急所を打ち抜き、一発の銃弾で鹿を斃すことが出来た。
アシㇼパが駆け寄って来た。ピクリともしない鹿を見るなり、「やるな」と褒めてくれた。
「今日は調子が良かったようだな。正直、また外すんじゃないかと思ってた」
「ひっどいなぁ。どんだけ俺の腕を疑ってんのよ……」
先ほどまでの重苦しい空気が嘘のように、ふたりは軽口を叩けるようになっていた。たまたま遭遇したこの鹿のお陰か。
「何にしても、いい土産になるな」
アシㇼパは嬉々として、早速解体を始める。杉元も一緒に手伝った。
やはり、アシㇼパと過ごす時間は好きだと改めて思う。こういう狩猟もだが、街へ出るのも楽しい。
(せめて、生きている間だけでも、アシㇼパさんと幸せな時間を……)
祈るような気持ちで杉元は思った。
【2024年9月12日】