不思議な心地だ。
ずっと自分の片恋だと思い込んでいたのに、杉元もアシㇼパを好きだと言ってくれた。
杉元は誠実な男だから、いい加減なことは決して言わない。昔からアシㇼパのことは大切にしてくれたが、想いが通じ合った今はまた違う。
ふたりきりになれば、どちらからともなく口付けすることが多くなった。最初は唇同士をそっと重ねる程度だが、徐々に深さを増す。
しかし、接吻より先のことは絶対にしてこない。まだその時ではないから、とその都度杉元は言うが、アシㇼパとしては多少なりとも不満を感じている。
もっと知りたい。杉元は、どんな風に自分を抱いてくれるのか。抱かれたら、どれほど幸せな気持ちに満たされるのだろうか、と。
◆◇◆◇
厳しい冬から、少しずつ春が近付いてくる。雪はまだ残っているが、その中で一輪の花がひっそりと咲いていた。
「可愛いなぁ」
杉元は花の側にしゃがみ込み、微笑ましそうにそれを眺めている。外見とは裏腹に中身は乙女そのもので、可愛いものに目がない。
昔と変わらないその姿に、アシㇼパも自然と口許が綻んだ。
「花って見てるだけで和むよねぇ」
この調子だと、いつまでもこの場に居座りそうだ。花を愛でるのは結構だが、アシㇼパとしては先に進みたい。
「杉元」
水を差すのは気が引けたが、意を決して促した。
「そろそろ行くぞ? のんびりしてたら日が暮れてしまう」
「はーい」
間延びした返事から、まだ名残惜しいのだと察した。だが、それには気付かぬふりを装い、アシㇼパは杉元の腕を引っ張った。
山の中を進みながら、アシㇼパと杉元はそれぞれ山菜を採取する。
仕掛けておいた罠にもリスが数匹かかっていた。愛でる意味合いでリスが好きな杉元は、最初の頃こそリスを食べることに驚いていたようだが、いざ口にすると美味しいと喜んでいた。
「こいつはチタタプだね?」
アシㇼパが言うまでもなく、杉元はすぐに察した。飲み込みが早いから、最初に調理法を教えただけですぐに覚えてくれた。
「ああ、クチャに戻って早速やるぞ」
「はい」
素直な返事だった。
クチャに戻ると、アシㇼパと杉元は早速、リスを捌いた。最初の頃は任されっ放ししだった作業も、今では杉元も当たり前のように下処理までしてくれる。
「アシㇼパさん、脳みそ食べていい?」
待ちきれないとばかりに訊ねてきた杉元に、アシㇼパは、「いいぞ」と頷いた。
「好きなだけ食べろ。残った分はチタタプするから」
「じゃあ、遠慮なく」
杉元は嬉しそうに、塩をかけてそのまま口に入れた。誰かが言ったことじゃないが、自分の好きなものを好きになってもらえるのは嬉しい。逆も然り。
「美味いか?」
「うん。ヒンナだよ」
期待した通りの返事をしてくれた杉元に、アシㇼパは自然と頬が緩んだ。
「じゃあ、そろそろチタタプするか?」
「お願いします」
ふたりは交代しながら、それぞれマキリや銃刀を使ってリスの肉を細かく叩いてゆく。そういえば、初めて杉元と一緒に食べたのもリスのオハウだったな、と、「チタタプ、チタタプ……」と唱えながら肉を叩く杉元を見つめながら不意に想い出に耽った。
最初は生で脳みそを食べることに抵抗があったようだが、今では先ほどのように進んで食べたがる。苦虫を噛み潰したような表情をしていたのが噓のようだ。
「ねえ、もうそろそろいいんじゃない?」
ぼんやりとしているところへ声をかけられ、アシㇼパはハッと我に返った。
「そうだな」
内心動揺しつつ、けれども悟られぬように冷静を装いながら、水の満たされた鍋に、肉と山菜、塩を入れてゆく。具材が煮えるのを待ちながら、アシㇼパは再び、杉元に視線を向けた。
杉元もアシㇼパを見つめている。改めて視線が交錯し合うと、嬉しい半面で気まずさも覚える。
緊張が走った。急に変に意識してしまい、アシㇼパは杉元から目を逸らした。
「は、早く食べたいな」
この何とも言えない空気を払拭しようとわざと声を出してみたが、胸の鼓動は速度を増すばかりだ。出来上がれば自然と食べることに集中出来るから、早く食べたいというのはある意味で本音だった。
気付けば杉元の手がアシㇼパのそれに重ねられた。驚き、思わず弾かれたように顔を上げると、切なげに笑みを浮かべる杉元と目が合った。
「ちょっとだけいい?」
断りを入れてきた杉元は、アシㇼパの返答を聴くことなく顔を近付けてきた。
アシㇼパは自然と瞳を閉じていた。まさかとは思ったが、杉元の唇がアシㇼパのそれと重なる。ただ、本当に軽い口付け程度で、それ以上のことはしてこなかった。
「ふ、不意打ちは卑怯だぞ……」
赤面させながら、思わず顔を背けてしまった。
「――もしかして、怒った……?」
恐る恐る訊ねる杉元に、アシㇼパは、「別に怒ってないけど……」とおずおずと続けた。
「ちょっと……、ビックリしただけで……」
「そっか。ごめんね、驚かせるつもりはなかったんだけど、アシㇼパさんが可愛いからつい……」
「ば、馬鹿ッ!」
可愛い、などと言われるのは予想外だった。先ほどにも増して鼓動の速度が増したアシㇼパは、思わず声を上げてしまった。
「――やっぱ怒ってるじゃん……」
「怒ってない! 杉元が変なこと言うから……」
「変なことを言ったつもりないんだけど……」
アシㇼパに説教されたと思い込んだ杉元は、両膝を抱えながら唇を尖らせた。もう三十に手が届く年齢の男なのに、拗ねている様はまるで子供だ。かと思えば、年相応の振る舞いをしてみたり、本当に忙しない。
(やれやれ……)
徐々に冷静さを取り戻したアシㇼパは、ちょうどいい具合に煮えてきたリスのオハウを椀によそった。
「ほら杉元、私は本当に怒ってないからいつまでも拗ねるな。まず食べろ」
差し出された椀と箸を杉元は素直に受け取る。膝を抱えた格好から胡坐を掻き、リスのチタタプを口に運んだ。
「ヒンナ……」
再び笑顔が戻った。嬉しそうに食べる姿を見つつ、アシㇼパも食事を始めた。
塩味だけでも充分美味い。けれど、食べ進めるうちに欲しくなるものがある。
「味噌入れようか?」
アシㇼパの密かな期待に杉元が応えてくれた。杉元自身も欲していたというのもあったかもしれないが。
杉元は、先日調達した味噌を残ったオハウの中に溶かし入れてゆく。汚物のような見た目に引いていたのが嘘のように、今ではアシㇼパの大好物のひとつになっている。
味噌で味に深みが増したオハウに、アシㇼパは満面の笑顔で、「ヒンナヒンナ」と繰り返す。ただの味噌ではなく、杉元のだからこそ、なお美味く感じるのだと思う。
「杉元のオソマは最高だな」
口をもごもごさせながら言うアシㇼパに、杉元は微苦笑を浮かべている。
「だからウンコじゃないっつーの……」
突っ込みを入れつつも、表情は優しかった。杉元もまた、自分の好物をアシㇼパに好きになってもらえたのが嬉しかったと以前に言っていた。
好きな人と好きなものを共有し合える。これ以上にない幸せだ、とアシㇼパは味噌入りオハウを夢中で食べながら心から思った。
食事を終えてから、アシㇼパと杉元はそれぞれ横になった。最初はわずかに距離を置いていたが、どちらからともなく身体を密着させた。
「あったかい……」
「うん」
杉元の胸に顔を埋めるアシㇼパを、杉元が優しく両腕で包み込む。昔も今も、杉元の匂いと温もりに安心感を覚える。だが、やはり抱き締められるだけでは物足りない。
「――杉元……」
アシㇼパは思いきって訊ねた。
「まだ、早いと思ってる……?」
杉元からの返答はない。寝てしまったのではと不安になって顔を上げてみると、神妙な面持ちの杉元と目が合った。
「――アシㇼパさんを、傷付けたくない……」
しばしの沈黙のあと、杉元がおもむろに続けた。
「接吻はいつもしているけど……、それ以上となるとまた違うから……。俺自身、まだ決心が着かないし……」
「そんなに難しいことなのか?」
「当然でしょ。絶対、男の俺よりもアシㇼパさんにしんどい思いをさせてしまうんだし。――まあ、いざとなったら出来る限り優しくするつもりではあるけど……」
「――なら、いざという場面を作ってしまえばいいんじゃないか?」
「いや、そういうことじゃなくて……」
杉元は言い淀んでいたが、意を決して口にした。
「――本音を言えば、今すぐにでもアシㇼパさんを抱きたい。でも、欲望の赴くままにっていうのは違う気がするんだよ。俺自身、女性を抱くことにそんなに慣れてないから……」
真面目な杉元らしい言い分だった。女性を抱くことに慣れてない、などと言ってしまうのは馬鹿正直にもほどがある思う半面、真剣にアシㇼパのことを考えてくれているのだと嬉しくなった。
「すまなかった……」
アシㇼパは謝罪した。
「私も気が焦っていた。しかも、女の私から催促なんてはしたなかったな」
「はしたないなんて思ってないよ」
杉元は口許に弧を描きながら、アシㇼパの髪を梳いた。
「アシㇼパさんに催促されるのは俺も嬉しい。ただ、もうちょっとだけ待ってくれる?」
「ああ、分かった」
アシㇼパは再び、杉元の胸に自らの顔を押し付けた。
杉元もまた、先ほどにも増してアシㇼパを強く抱き締めてきた。
「寝ようか?」
そう言って、杉元はアシㇼパの額に口付けしてきた。
「おやすみ……」
「ああ、おやすみ……」
服越しにも、杉元の鼓動がトクトクと鳴っているのが分かる。これは幸せの音色だ。
(私も、杉元と同じ……)
アシㇼパは瞼を閉じた。
そのうち、ふたりから静かな寝息が出始めた。
【2024年9月9日】