最初は恋愛感情は全くなかった。人を殺したくないというアシㇼパに代わり、杉元が汚れ仕事を全て引き受けることを条件に行動を共にしていただけだった。
気持ちに少しずつ変化が生じてきたのは、アシㇼパと引き離されてしまった時だろうか。必死でアシㇼパの足跡を追い続け、ようやく再会出来た時は、安堵と同時にどれほど大切な存在であったかを思い知らされた。
だが、それでも関係性が変わることはなかった。
アシㇼパも杉元に特別な感情を抱いていたことに薄々勘付いていたものの、穢れた自分がアシㇼパと添い遂げることはしてはならないと、必死で想いを閉じ込めてきた。
◆◇◆◇
「ずっと、杉元だけが好きだった」
眠れずにいたアシㇼパを外に誘い出した夜、意を決したように杉元に伝えられた。
頬を濡らしているアシㇼパを目の当たりにし、杉元は罪悪感を覚え、また、奥底に仕舞い込んだはずの想いが抑えられなくなった。
気付けば、アシㇼパに口付けをしていた。最初は触れる程度で済ませるつもりだったのに、予想に反して催促され、欲望の赴くままに深く唇を塞いだ。
(好きだよ……)
自分の腕の中で眠るアシㇼパに、杉元は心の中で想いを告げた。
◆◇◆◇
「おい杉元、いい加減起きろ! いつまで寝てるつもりなんだっ?」
夢と現実の狭間をさまよい続ける杉元の身体を、アシㇼパが揺さぶってくる。昨晩はあれから妙に目が冴えてしまい、明け方近くまで眠れなかった。
今日は毛皮を売りに一緒に街へ出る約束をしていたから、起きなくては、とは思った。だが、どうあっても睡魔には勝てない。
「うーん……、もうちょっとだけ寝かせて……」
そう言って、頭から毛布を被った時だった。
「スーギーモートぉー」
怒りを含んだアシㇼパの声が耳に飛び込んできた。
「まだ起きない気ならストゥだぞぉー?」
最恐の脅し文句に、眠気も一気に吹き飛んだ。ストゥでぶん殴られては堪ったものではない。
「ア、アシㇼパさーん……、ストゥはやめてぇ……」
〈不死身〉と呼ばれ、屈強な精神を持つはずの杉元であっても、ストゥを握り締めながら不敵な笑みを浮かべるアシㇼパには敵わない。
「ちゃんと言うことを聞けばいいんだ。私もストゥを無闇に振り回したくない」
嘘吐け、と杉元は心の声で突っ込んだ。ことある毎にストゥを脅しに出してくるし、ぶん殴っている時のアシㇼパは誰が見ても生き生きとしている。
「とにかくアシㇼパさん、危ないからストゥは引っ込めましょうねぇ?」
今にも殴らんとしているアシㇼパを宥め、その手からそっとストゥを取り上げる。これで何とか、危険は回避出来た。
アシㇼパもようやく冷静さを取り戻してくれたようだ。ホウ、と息を吐き、「早く準備しろ」と促してきた。
アシㇼパと街の中を歩いていると、妙に周囲からの視線が刺さる。殺気は感じないが、違う意味で不快な視線だ。
杉元は不意に、隣にいるアシㇼパをチラリと覗う。幼い頃から元々綺麗な少女だったが、歳月を重ねてゆくとさらに美しさが増した。杉元の腰の辺りほどまでしかなかった身長も、今では胸元ぐらいまで伸びている。
(これじゃあ、男達の目を引くのも無理はないか……)
そう思うものの、アシㇼパが男達の注目を浴びるのはやはり面白くない。つい条件反射で、あからさまに下心丸出しな連中をギロリと睨んでしまう。
「どうした、杉元?」
気付くと、アシㇼパが杉元を見上げていた。
「怖い顔をしてる。何があったか?」
心配そうに訊ねてくるアシㇼパに、杉元はいつものように穏やかに微笑んで見せた。
「いや、何でもないよ。ちょっと悪い虫を追い払っただけだ」
「――殺す気だったんじゃないか……?」
察しが良過ぎる。さすがに殺すつもりはないが、睨まれてもなお懲りないようだったら、軽く一発殴ってやろうか、ぐらいは思った。
「大丈夫だよ。そんな無闇に殺したりしないって」
「お前はブチ切れたら何するか分からない……」
「――俺ってそんなに信用ないの……?」
「前科があり過ぎる。まあ、何にしても無駄は殺生はしないでくれ」
アシㇼパに窘められた杉元は、微苦笑を浮かべながら肩を竦める。
「分かったよ。俺だってアシㇼパさんを哀しませるような真似はしたくないからね」
アシㇼパを安心させようと、杉元はそう告げた。
「分かってくれたならいい」
アシㇼパに笑顔が戻った。自分に向けてニッコリされると、心が穏やかになってくる。
持って来た毛皮は高値で引き取ってもらえた。懐具合は潤い、必要なものを充分に買い揃えることが出来た。なくなりかけていた味噌も補充し、アシㇼパは、「またオソマが増えたな」と目をキラキラ輝かせながら喜んでいた。
「もう……。何度も言うけど、味噌はウンコじゃないからね?」
こういったやり取りも幾度となく繰り返してきたが、全く嫌な気はしない。建前として突っ込みながらも、アシㇼパの幸せそうな笑顔を見られるのは杉元も嬉しいと思っている。
「杉元」
街からだいぶ離れ、人気がなくなってから、アシㇼパがおもむろに口を開いた。
「お願いしたいことがあるんだが……」
「ん? 改まってどうしたの?」
杉元が訊ねるも、アシㇼパは口籠ってしまい、何も言わない。不思議に思いつつ、けれども辛抱強く続きを待っていたら、意を決したように告げてきた。
「――手、繋いでもいいか……?」
一瞬、杉元は目を見開いた。驚いたものの、頬を染めているアシㇼパを目の当たりにし、自然と口許が綻んだ。
「うん、いいよ」
答えるのと同時に、アシㇼパの手を握った。背は伸びても、手はほっそりとしていて小さい。うっかり力を入れてしまうと壊れてしまいそうだ。
アシㇼパは顔を赤らめながら、笑みを浮かべている。
「――なんか、ちょっと変な感じ……」
「変な感じ、って?」
手を繋ぎたいと言ってきたのに、矛盾している。あからさまに怪訝な表情をしてしまったら、アシㇼパは慌てたように、「あ、悪い意味じゃないんだ」と否定してきた。
「なんて言うか……、本当に、杉元と想いが通じ合えたんだな、って思って……。ずっと、私の片想いだったから……。杉元は、私じゃない人を忘れられずにいたから、いつか、私から離れてしまうじゃないかって、ずっと怖かったから……」
アシㇼパの言葉に、杉元は心臓が鷲掴みにされたような衝撃を覚えた。
長いこと想い続けていた、許嫁だった幼なじみ。確かに、アシㇼパと出逢ってからもしばらくは、多少なりとも未練があったことは否定出来ない。だが、それも過去のことだ。現に彼女は、彼女なりに新たな道を進んでいた。もう、杉元を必要とはしていない。
「俺は、ずっとここにいるよ」
アシㇼパの不安を拭い去ってあげるつもりで、杉元はゆっくりと言葉を紡いだ。
「俺は過去じゃなくて、アシㇼパさんとの今とこれからを大事にしたい。アシㇼパさんが俺を想ってくれてるならそれに応えたい」
そこまで言うと、杉元は足を止めてアシㇼパから手を離した。そして、肩越しに身体を抱き寄せ、アシㇼパの額にそっと唇を押し付けた。
「好きだよ、アシㇼパさん……」
耳元で囁くと、アシㇼパが弾かれたように顔を上げる。その瞳は潤んでいる。
アシㇼパの瞼が閉じられた。わずかに開いた唇に、杉元のそれを重ねる。
昨晩のように強引にするつもりはなかった。しかし、今度はアシㇼパから求められ、結局は杉元の理性が崩壊した。アシㇼパの後頭部に手を添え、水音を立てながら互いの舌を絡ませ合う。
このまま抱いて壊してしまいたい衝動に駆られる。だが、それだけはどうにか思い留まらせた。
やがて、どちらからともなく唇が離れ、同時にアシㇼパが杉元の胸元に倒れ込んできた。
「アシㇼパさん、大丈夫?」
抱き締めながら問うと、アシㇼパは、「ああ」と肩で息をしながら短く答えた。接吻で息苦しさを覚えたのだろうか。
「ごめんね。また昨晩のようなことをしてしまって……」
謝罪する杉元に対し、アシㇼパは首を横に振った。
「いい……。もっと、杉元を知りたいから……」
アシㇼパも杉元と繋がることを望んでいる。何となく察したが、まだその時ではない。
「いつか、そのうち……」
そう告げるのが精いっぱいだった。アシㇼパが大切だからこそ、これ以上は怖い思いをさせたくない。
「――杉元の優しさは狡いな……」
優しさを出したつもりではなく、己の欲望を抑えただけだったから、罪悪感で胸の奥が小さく痛んだ。
「暗くなってきたな……」
アシㇼパの言う通り、辺りに夜の帳が降りてきた。
再び、杉元はアシㇼパの手を取った。互いに握り合い、帰るべき場所に向かって歩き出した。
【2024年9月2日】