触れて、温めて

杉元佐一×アシㇼパ


 初めてアシㇼパが杉元と出逢った時は、ただのシサムの男だという認識しかなかった。勇敢さに目を瞠ることはあったが、それ以上でもそれ以下でもなかった。
 そもそも、父親から山で生き抜く術だけを教わってきたアシㇼパは、周りの女達とは生き方そのものが違っていたのだ。
 たまに、コタンの女達から色恋話を聴くことはあった。だが、そんなことに全く興味のなかったアシㇼパは、何故そこまで女達が盛り上がるのか全く理解出来なかった。
 だからこそ、アシㇼパの中で杉元の存在が大きくなるにつれ、戸惑うことが増えた。
 杉元はアシㇼパを恋愛対象としては見ていない。
 一緒に旅をしながら、抱き締められながら眠ることが何度かあったが、それは単純に、お互いを温め合うための手段に過ぎない。そして、アシㇼパが淋しい想いをしないようにという、杉元なりの優しさということも。
 金塊争奪戦から五年の歳月が流れても、杉元のアシㇼパへの接し方は変わらなかった。以前と同様に優しくしてくれるが、アシㇼパとの間に見えない境界線を引いて距離を置いている。
 不意に、フチが杉元に、アシㇼパを嫁に貰ってほしいと告げたことを想い出す。だが、アイヌ語の分からない杉元にアシㇼパが適当に通訳してしまったことで、フチの切実な想いは本人に伝わらなかった。
(もし、杉元があの時言葉が分かったら……)
 そう思うことは何度もあった。しかし、通じたところで、杉元は困惑するだけだっただろう。幼い少女としか思われていなかっただけでなく、親友の未亡人のことを忘れられずにいただろうから。
 その杉元は今、自分の故郷へは帰らず、アシㇼパのコタンで暮らしている。元々素直で、順応力が高かったから、すぐに周りに溶け込んだ。

 ◆◇◆◇

 アシㇼパと杉元は、いつものように狩猟に出て来ていた。出逢った頃からずっと相棒として行動を共にしてきたからか、一緒にいることが当たり前となっている。
「杉元、あそこだ」
 一頭の鹿を見付けたアシㇼパが、それに向かって指をさした。
「撃てるか?」
 アシㇼパが問うと、杉元は愛用の小銃を構える。
「ああ、やってみる」
 ふたりに緊張が走る。そもそも、杉元は射撃が上手いとはお世辞にも言えない。以前に比べたら少しはまともに撃てるようになったものの、それでも一度で仕留められない確率が高い。
「今だ」
 アシㇼパの合図で、杉元は引き金を引いた。銃声が鳴り響く。
「やったか?」
「まだだ。クソッ、急所を外してしまった」
 一瞬、アシㇼパが自分の弓矢でとどめを刺そうかと思ったが、やめた。
 杉元は再び銃を構え直し、二発目を撃った。
「やった!」
 一発目の時に必死で逃げようとしていた鹿は、二発目で斃れた。
 アシㇼパは鹿に駆け寄り、その場で素早く解体を始めた。
「アシㇼパさん、相変わらず器用だよねぇ」
 てきぱきと鹿を捌いてゆくアシㇼパの隣に屈みながら、杉元が感嘆する。いつも見ている光景なのに今さらだな、と少し呆れた。
「感心してないで杉元も手伝え」
「はい」
 窘められた杉元は、肩を竦めつつも素直に返事をし、銃剣を取り出した。
「さすがに今じゃ慣れたけど、最初はちょっと抵抗があったよ。鹿を捌くとか……」
「平気で人殺しはしてきたくせにか?」
「――別に平気じゃなかったよ。生きるためには殺すしかなかったんだし……」
「冗談だ」
 アシㇼパは手を休めることなく続けた。
「杉元が好きで人を殺してたわけじゃないのは私もよく分かってる。現に私自身、何度も杉元に助けられてきたんだ。杉元がいなければ、私はとっくに……」
「アシㇼパさんを危険な目に遭わせちゃったのは俺だけどね」
 アシㇼパの手が止まった。隣の杉元を仰ぎ見ると、哀しげに笑みを浮かべる杉元と目が合った。
「俺のような人殺しには絶対させたくなかったのに、一度だけとはいえ、手を汚させてしまったからね。アシㇼパさんなりに覚悟をしていたのも分かっていたつもりだったけど、本心では後悔ばかりだった……」
 杉元の言葉に、アシㇼパの胸の奥が微かに痛んだ。考えるまでもなく、尾形を矢で射抜いた時のことを言っている。
「――まさか、すぐに自害するとは思わなかった……」
 矢に塗られた毒で混乱したのか、尾形は小銃を己の額に当てて引き金を引いた。あの光景は忘れようにも忘れられない。
「最期の最期までいけ好かない野郎だったな」
 手が止まってしまったアシㇼパの代わりに杉元がひたすら捌きながら、続けた。
「でも、こうして平穏な毎日を送れるのはありがたいことだ。アシㇼパさんと狩りに出るのは楽しいし、コタンでの暮らしも決して悪くない」
「そうか」
 アシㇼパは素っ気なく返事をしたが、内心苦しみを覚えた。先ほどとは違う心の痛みが、じわじわと広がってゆくようだった。
 杉元に想いの丈をぶつけたい。しかし、拒絶された時の恐怖が勝り、言いたいことをグッと飲み込むしかなかった。

 その日の夜、アシㇼパはなかなか寝付けずにいた。隣では、杉元が規則正しい寝息を立てている。
 日中に杉元のことを意識し過ぎたせいか、妙に落ち着かない。
 アシㇼパはゆっくりと身体を起こし、静かに杉元へ近付いた。改めて見ると、端正な顔立ちをしている。初めて逢った時から傷はあったが、それが父親の面影と重なる部分があった。
(触りたい……)
 ほとんど無意識に、杉元の顔に手が伸びていた。傷を指先でなぞり、唇に触れてみる。
 胸の鼓動が高まる。もっと触れたい。そんな強い欲望に駆られ、今度はアシㇼパの顔を近付けようとした。
 と、その時だった。
「アシㇼパさん?」
 眠っていたはずの杉元が目を覚ました。
 アシㇼパは慌てて後ずさった。
「わ、悪い……」
 全身が熱を帯びている。杉元とまともに目を合わせられない。
「眠れないの?」
 動揺しているアシㇼパに対し、杉元はずいぶんと落ち着いていた。半身を起こし、真っ直ぐな視線を注いでくる。
「眠れないならちょっと外に出る? 俺も付き合うから」
 杉元からの提案に、アシㇼパは少し間を置き、ゆっくりと首を縦に動かした。

 外に出ると、夜の冷気が全身に纏わり付く。多少の寒さには慣れているつもりだが、それでも両腕で自らを抱き締めてしまう。
「――嫌じゃなかったのか?」
 おもむろにアシㇼパが口を開いた。
「その……、寝ていた杉元に勝手に触ったりして……」
「どうして? 別に嫌じゃないよ。俺だってアシㇼパさんに何度も触れてるし」
「そういうことを言ってるんじゃないんだ……」
 アシㇼパは杉元を仰ぎ見た。
 杉元は、どこか切なげにアシㇼパを見つめている。
 溢れる想いが止められなくなった。「寒い」とポツリと呟くと、杉元に身体を預けた。
「――私じゃ、ダメなのか……?」
 場の雰囲気に流されたのか、アシㇼパはとうとう言葉にしてしまった。
 案の定、杉元は戸惑っていた。少しばかり躊躇い、アシㇼパの頭をそっと撫でた。
「――ダメじゃないよ」
 杉元はゆっくりと言葉を紡いだ。
「ただ、アシㇼパさんとは歳が離れているし、散々人を殺しまくっているような俺と一緒になるのは……」
「――私は、杉元がいい」
 杉元の胸元に顔を埋めながら、アシㇼパは続けた。
「ずっと、杉元だけが好きだった。今でもだ。顔も、声も、優しいところも、強いところも、全部……」
 想いを口にしてゆくうちに、目から熱いものが込み上げた。泣くまいと思うのに勝手に涙が溢れ、頬を伝う。
 泣いているところを杉元に見られてはならない。優しい杉元をさらに追い詰めてしまう。そう思い、必死で涙を止めようとした。
「ごめんな」
 杉元の両腕が、アシㇼパの華奢な身体を包み込んだ。
「本音を言うと、俺も凄く悩んでた。アシㇼパさんが俺をどう想ってるかも薄々気付いてたし、俺自身……、アシㇼパさんが欲しくて堪らなかった……。でも、アシㇼパさんの幸せのために、俺の想いはずっと、心の奥底に仕舞い込んでおくつもりだった……」
 そこまで言うと、杉元は右手をアシㇼパの顎に添えた。顔だけ仰向かせ、アシㇼパの濡れた頬を見て、「ごめんな」と重ねて謝罪を口にした。
「泣かせちゃったね。そんなつもりなんてなかったのに」
「違う、杉元は悪くない。私が勝手に泣いただけだ」
「優しいな、アシㇼパさんは」
 杉元は小さく口許に弧を描き、「ねえ」とアシㇼパの耳元に囁いてきた。
「本当に後悔しない? 気持ちを抑えてきた分、アシㇼパさんを怖がらせるようなことをしてしまうかもしれないよ?」
「私を、怖がらせるようなこと、って……?」
 恐る恐る訊ねるアシㇼパと杉元の唇がほんの少し触れた。突然のことに、アシㇼパは瞠目したまま固まってしまった。
「やっぱり、こういうことされるの嫌だった……?」
 今度は逆に、杉元が不安げに訊ねてくる。
 アシㇼパは我に返り、何度も首を横に振った。
「もっと……、してほしい……」
 気付けば口にしていた。
「教えてくれ、私に……」
 言い終えるかどうかのところで、杉元の顔がゆっくりと近付いてきた。
 アシㇼパは瞼を閉じる。
 先ほどよりも長く深い口付けだった。わずかに開いた口の割れ目から杉元の舌が入り、アシㇼパのそれを絡め取る。
 息苦しさとほんの少しの恐怖に、思わず身じろぎしてしまう。だが、今度は杉元はアシㇼパを逃すまいと強く抱き締められた。
 頭の中が真っ白になる。このまま窒息してしまうのでは、と半ば本気で思っていたら、ようやく解放された。
「大丈夫?」
 さすがにやり過ぎたと思ったのか、杉元が心配そうに、ぼんやりとしているアシㇼパに声をかけてくる。
「ごめんね。アシㇼパさんに催促されたら止まらなくなった……」
 アシㇼパは息を整え、「平気だ」と続けた。
「杉元と触れ合えて、嬉しかったから……」
 杉元は驚いたようにわずかに目を見開いていたが、いつもの優しい眼差しになり、アシㇼパの頬を撫でる。大きくて温かい杉元の手は、いつでもアシㇼパに安らぎを与えてくれる。
「あったかい……」
 杉元の胸に顔を埋めながら、耳を押し当てる。鼓動がトクトクと伝わってくる。
「このまま、杉元と……」
 口にしながら、意識が遠のいてゆくのを感じた。ずっと、杉元に抱き締められながら眠り続けたい。祈るように想う。
「そろそろ戻ろうか?」
 杉元は察したのか、ごく自然にアシㇼパを抱き上げた。
「おやすみ、アシㇼパさん」
 杉元の心地良い声音を耳にしながら、そのまま腕の中で眠りの世界へと誘われた。

【2024年9月2日】
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