このところ、アシㇼパが素っ気ない。山に行こうと声をかけても、都合が悪いからと断られることが増えた。
思い当たる節はない。いや、もしかしたら、クチャで何度もアシㇼパを抱いたことで愛想を尽かされてしまったのか。抱かれている時は幸せそうにしていたのに、内心では面倒臭かったのだろうか。つい、そんな消極的なことを考えてしまう。
◆◇◆◇
今日も今日とて、アシㇼパは相変わらず杉元からの誘いを断ってきた。理由を知りたかったが、あまりにしつこいとよけいに嫌われそうな気がして、あえて何も言わなかった。
「じゃあ、山に行ってくるよ」
そう告げると、アシㇼパは、「ああ」と短く答えた。一瞬、淋しげな表情を見せたのは気のせいだろうか。
「気を付けて行って来い。いい獲物を期待してるぞ?」
そう告げてきた時には、いつものアシㇼパに戻っていた。杉元の射撃の腕を揶揄するように、ニヤリと不敵な笑みを向けてきた。
「ちょっとアシㇼパさん、俺だってやる時はやるって知ってるでしょ? 何なのその嫌味ったらしい言い方と笑い方は?」
別に腹を立てたわけではないが、場の空気を和ませるつもりでわざと突っ込んでみた。
アシㇼパも察したのだろう。今度は嫌味のない満面の笑顔で、「分かってる」と続けた。「最近は杉元も一発で仕留められることが多くなったしな。だから本当に期待してるぞ?」
期待され過ぎるのも考えものだ。しかし、お陰で気合いが入った。
杉元はアシㇼパに見送られながら、コタンをあとにした。
山にひとりで来るのはずいぶんと久しぶりだった。アシㇼパに断られるようになってからはコタンの男達と一緒に来ることが増えたが、今日だけはひとりで行動したい気分だった。いや、正確にはアシㇼパとふたりで来たかったのだが。
ひとりで山の中を歩いていると、砂金を求めて小樽に来た時のことを想い出す。あの頃は、親友の寅次との約束と許嫁だった梅子のことしか頭になかった。梅子の目を治療させてやるための資金を求め、必死で川で砂金を探していた日々。それは結局、徒労に終わり、代わりに別の出逢いがあったのだから運命とは不思議なものだ。
もし、家族全員が結核に罹らなければ、と考えることはよくあった。梅子と一緒になり、子供を作って順風満帆な毎日を送れたのではないだろうか。そうなれば、小樽に来ることはもちろん、戦争に赴くこともなかったかもしれない。当然、アシㇼパに出逢うことだってなかった。
家族がいなくなったことは辛い。しかし、今ではアシㇼパと出逢えたことに感謝している。人殺しを続け、寅次も犠牲にしたことへの罪悪感に囚われ、日に日に自分を失っていったが、アシㇼパが杉元に笑顔を取り戻してくれた。
(もう、大切なものを失いたくない……)
心の底から強く想う。天涯孤独に過ごしてゆく覚悟もあったが、今はアシㇼパと共に生きていきたい。だからこそ、コタンで暮らすことを決めた。
「早く、アシㇼパさんにマキリを贈れるようになりたいが……」
ひとりごちた時だった。黒い毛の塊が目に飛び込んだ。
「――羆だ……」
山にいれば当然、遭遇することはある。しかし、いざとなると恐怖を覚える。羆との距離がそれなりにあったことだけが幸いだった。
杉元は少し考えた。気付かれないうちにそのまま静かに逃げようかと。
「いや、ここで仕留めてやる」
自分に言い聞かせるつもりで口に出した。羆は何度か仕留めたことがあったが、ひとりではまだない。そういえば、初めてアシㇼパに逢ったのも羆に襲われていた時だった。あの場でアシㇼパが毒矢を放ってくれなければ、杉元であっても無事ではなかった。
(本当に俺ひとりで大丈夫か……?)
自問自答を繰り返しつつ、小銃に弾薬を装填し、自ら羆との距離を縮めてゆく。
全身から汗が噴き出てくる。緊張で、手もじっとりと濡れている。
息を飲み、引き金を引こうとした、まさにその時だった。
羆がこちらに気付いた。
「しまった……!」
咄嗟に引き金を引いたが、銃弾は羆の頑丈な頭にぶつかり、そのまま跳ね返された。
「クソッ!」
間髪入れず二発目を放つも、的が外れた。
そうしているうちにも、羆は杉元目がけて突進して来る。
杉元は必死だった。ほとんど無意識に腰から銃剣を引き抜き、それを小銃の先に挿し込む。
「やられてたまるか! 俺は不死身だ!」
叫びながら、無我夢中で羆に向かって剣先を向ける。
羆は杉元にのしかかってきたが、杉元は下から剣を突き刺した。アシㇼパが昔言っていた、捨て身の戦法だった。
羆はなおも暴れ続ける。こうなると、杉元と羆の根競べになりそうだ。どちらが先に力尽きるか。
(いい加減くたばりやがれ!)
羆の重みに耐えながら剣を刺す腕に力を籠めるも、しだいに疲れが出始めた。
(まだだ。まだ……)
意識が薄らぎそうになった時、羆の動きが鈍くなってきた。
(やったか……?)
杉元は頭だけ出して、羆の状態を確認する。と、気付いたら身体に一本の矢が突き刺さっているのが目に飛び込んだ。
「なんて無茶をするんだ、杉元……!」
声のした方に視線を向けると、弓を番えたアシㇼパが立っていた。考えるまでもなく、羆はアシㇼパの放った毒矢によって止めを刺されたようだ。
アシㇼパは羆の下敷きになっている杉元の所へと駆け寄って来た。そして、杉元を引っ張り出すと、そのまま抱き着いてきた。
「こんな無謀なことはしないでくれ……。あの時と今とでは状況が違う。お前は確かに強い。けれど……、こんなことで死なれたりしたら、私は……」
「アシㇼパさん……」
杉元もアシㇼパを抱き締め返した。肩を震わせて泣きじゃくるアシㇼパに、「ごめん」と謝罪した。
「俺も無謀だと思った。でも、ちょっと昔を想い出してしまって、つい……」
「――馬鹿野郎、馬鹿野郎……」
「悪かったってば。だからあんまり馬鹿って言うなよ……」
杉元はわずかにアシㇼパの身体を離した。
「けど、どうしてここに? てっきりコタンにいるものだと思ってた」
杉元に問われ、アシㇼパはばつが悪そうに杉元の視線から逃れようとしていた。だが、黙っていても仕方ないと思ったのが、「我慢出来なかった」とポツリと漏らした。
「本当はチセで大人しく裁縫してようと思った。今までも頑張って我慢したから。――でも、やっぱりどうしても杉元と一緒にいたくて……」
「裁縫? またどうして?」
杉元は怪訝に思った。アシㇼパは裁縫は全くと言っていいほど苦手なはず。そんな彼女が何故、急にそんなことを始めたのか疑問だった。
アシㇼパの顔がみるみる朱く染まってゆく。何か拙いことでも言ってしまったかといささか不安になったが、違った。
「――杉元に、テクンペを作ってやりたくて……」
「俺のために?」
アシㇼパは顔を赤らめたまま、黙って頷いた。
杉元もさすがに察した。確か、女性が男にテクンペを贈るのには特別な意味合いがあった。
「そっか」
杉元の口許が自然と綻んだ。大好きな狩猟を我慢し、自分のために頑張って苦手な裁縫をしてくれていたなんて嬉しくないはずがない。同時に、杉元はまだアシㇼパのために何もしていないことを申し訳なく思った。
「――俺も、アシㇼパさんのために頑張らないとな」
不意に出た言葉に、アシㇼパが不思議そうにしている。
杉元は微苦笑を浮かべた。
「アシㇼパさんのためのマキリ。俺はアシㇼパさんと逆で、彫刻は苦手だから……。でも、アシㇼパさんが頑張ってくれてるなら、俺もやらないと」
「――それこそ気にしないのに……」
「アシㇼパさんが気にしなくても、俺が気にするの。テクンペ作ってくれてるって知っちゃったらなおさらだよ」
そこまで言うと、杉元はアシㇼパの頭をそっと撫でた。
「そうだ。毒が回らないうちにこいつ解体しないと拙いんじゃない?」
杉元の言葉に、アシㇼパがハッと気付いた。
「そうだった。急がないと」
杉元とアシㇼパはふたりで協力しながら、せっせと羆の解体に取りかかる。
改めて、ひとりで羆に挑もうなどと無茶苦茶にもほどがあった。何故、ひとりで変な意地を張ってしまったのか。やはり、自分の相手をしてくれなくなったアシㇼパの気を引きたかったのか。
「――良かった……」
無意識に口に出ていた。
アシㇼパは首を傾げ、「何がだ?」と訊ねてきた。
「俺、アシㇼパさんに嫌われたかもしれないって思ってたから。ほら、ずっと素っ気なかっただろ? もしかして……、愛想尽かされたかも、って……」
「そんなわけないだろう」
作業する手を休めることなく、アシㇼパは続けた。
「杉元に愛想を尽かすなんて絶対にない。私は、どんな杉元だって……、好きなんだから……」
最後は消え入るような声だったが、杉元の耳にははっきり入ってきた。アシㇼパの想いが嬉しくて、このまま抱き締めてしまいたい衝動に駆られたが、解体を中途半端にするわけにもいかないと思い直し、どうにか留まった。
杉元の気持ちを知ってか知らずか、アシㇼパは解体に集中し出した。これではなおさら、邪魔をするわけにいかない。
(終わったら、たくさん抱かせてもらおうか……)
アシㇼパと少しでも長く抱き合う時間を作りたい。そんな妙な使命感に駆られたら、作業する手も自然と速まった。
【2024年12月22日】