「おい、相馬!」
耳障りなほどの大声を上げながら、野村が部屋に入って来た。
(相変らず落ち着きのない奴だ……)
そんなことを思いながら、相馬はゆっくりと振り返る。
「どうしたんだ、野村?」
「なあ、たまにはふたりで外で飲まないか? どうせお前も暇なんだしさ」
「――俺はお前に、暇だ、と言った憶えはないが……」
「でも、なんも予定はないだろ? だったら行こうぜ、なっ?」
相馬の返事も訊かず、野村は強引に彼の腕を引いた。
「お、おい……!」
上機嫌な野村相手に、返す言葉が見付からない。
相馬は訳も分からぬまま、引っ張られて行くこととなった。
野村に連れて来られた場所は大衆向けの酒場だった。酒をお酌してくれるような遊女などいない。ただ、それぞれが思うがままに酒を嗜んでいる。
「ほら、飲めよ?」
野村は満面の笑みを浮かべながら、相馬に酒を勧める。
それを受けて、慌てて猪口を手に取った。
なみなみと注がれる透明な液体。口にすると、ほんのりと苦味が広がる。
「こうして男同士で外で飲むのも決して悪くないよな」
野村は酒を口にして、屈託なく言う。
一見、単純そうな印象を受ける彼。だが、時々何を考えているのか相馬も理解しかねる時がある。
「――何か、あったのか……?」
思いきって、野村に訊ねた。
「どうして?」
「いや……、何となくだが……」
相馬は辛抱強く、彼の言葉を待った。
野村は手酌で自分の猪口に酒を注ぐと、一気に煽った。
「――相馬」
野村がぽつりと呟いた。
「お前、彼女をどう想ってる?」
「彼女……?」
誰のことを言っているのか分からず、相馬は首を捻った。
「だから、倫ちゃんだよ」
「ああ、彼女か……」
倫――花柳館の女流武芸者だ。見た目は可憐な少女だが、花柳流二代目宗家の庵に稽古を付けられていただけのことはあり、武術の腕前はなかなかのものだ。
しかし何故、急に倫の話題が上るのか相馬は些か疑問に思えた。
「相馬、どうなんだ?」
黙りこくってしまった相馬に、野村はさらに重ねて問い質す。
「どう、と言われても……」
相馬は答えに窮した。
倫のことは好きだ。相手によっては少々突っかかってくる場合もあるが、それでも、根は素直で優しい少女だ。
特に彼女の笑顔は、誰をも幸せな気持ちにしてしまう。色恋沙汰に無頓着な相馬でさえ、心を奪われてしまうほどに。
「相馬、実はさ……」
空になった猪口を指で弄びながら、野村が言った。
「俺、どうも倫ちゃんを好きになってしまったみたいで……。情けないことに、寝ても覚めても彼女のことばっか考えてる。けど……、彼女は俺のこと、友達以上には想っていないんだよな」
「――そうなのか?」
「ああ」
「しかし、倫さんに直接確かめたわけでもないのだろう? それなのに何故、そんなことが……」
相馬が言いかけると、野村は静かに立ち上がった。
「――少し、酔いを醒まさないか?」
野村に促され、相馬も立った。
◆◇◆◇◆◇
ふたりが来たのは、夏、相馬や倫と訪れた河原。
あの頃は倫に対して恋愛感情などなく、ただ純粋に、〈友人〉として倫が好きだった。それなのに、いつの間に恋心を抱いてしまったのか。
「――野村」
相馬の呼びかけに、野村ははっと我に返る。
「さっきの続きだが、野村、お前はいったいどうしたいと考えているんだ?」
「――どうもしないさ。ただ……」
野村はその場に屈み込み、さらさらと流れる水に手を入れる。凍り付きそうなほどの冷たさ。だが、それでも彼は水に触れ続けた。
「ただ、何だ?」
「ただ……、俺は倫ちゃんが幸せになれることを祈るだけだ。相馬、お前は気付いていないかもしれないけど、彼女はお前に想いを寄せてる。だから、どうかお前が倫ちゃんを幸せにしてやってくれないか?」
「――俺が……、倫さんを……?」
相馬は困惑している。無理もない。倫を愛しているのかどうか、相馬自身は全く気付いていないのだから。
だが、野村は相馬以上に相馬の気持ちを理解していた。
「――野村……」
頼りない声で、相馬が言った。
「本当に俺が、倫さんを幸せに出来るのか……?」
「当たり前だろ!」
彼の不安を払拭するように、野村は明るく答えた。
「お前は俺が認めた、ただひとりの親友だ。他の野郎に倫ちゃんを奪われるのは許せないけど……、相馬が相手ならば諦められる」
彼は立ち上がると、相馬の肩を強く掴んだ。そして、歯を見せて満面の笑みを浮かべた。
相馬はしばらく呆然と立ち尽くしていたが、野村の笑顔に触発されたのか、微かに笑みを零した。
「野村の気持ちは分かった」
相馬は静かに言った。
「だが、俺はまだ、倫さんをどう想っているのか分かってない。だから、もう少しだけ……」
「ああ! じれったいなあ!」
野村はわざとらしく、声を上げた。
「男なら、押して、押して、押しまくれだぜ! 何なら、俺が後押ししてやるよ!」
「――よけいなことはしなくていい……」
けんもほろろに断られ、野村は肩を竦めた。
「それじゃあ、俺は口出しをいっさいせず、そっと見守ることにするよ。それならば文句ないだろ?」
「――勝手にしろ」
いつものふたりに戻り、空気が一気に和んだ。
【初出:2008年1月28日】