倫はある場所へと向かっていた。
心の中は不安とわずかな恐怖感が広がっている。
その場所へは、元々進んで行きたいと思うような場所ではない。しかし、過去に何度も誘われていたのだから、さすがにずっと行かずにいるというのも失礼であろう。そう考え、倫は美味しいと評判の店の饅頭を手土産に、思いきって出向くこととした。
しばらくして、目的の場所へ着いた。
大きな門の横には、〈新選組屯所〉と書かれた少しばかり古びた看板が物々しく掲げられている。
それだけで引け目を感じ、逃げ出したい衝動に駆られる。だが、ここまで来た以上は後には引けない。
倫は意を決して門を潜った。
中に入り、まず耳に飛び込んできたのは隊士達の威勢の良い掛け声だった。どうやら、稽古をしている最中らしい。時々、「まだまだ!」、「詰めが甘い!」などと檄が飛んでいる。
(花柳館とはあまりにも違い過ぎるわ……)
倫はつい、自分が世話になっている花柳館と新選組を比較してしまう。
花柳館の武術は護身を目的としているのに対し、新選組の訓練は実戦を想定している。場合によっては人を斬ることも厭わないため、稽古の厳しさも桁違いである。
ふと、生前の山南に「君は人を殺めたことがあるかい?」と訊ねられたのを想い出した。
その山南も、今はもうこの世にいない。
優し過ぎた新選組総長の末路。花柳館とも縁が深かった人物だけに、山南の死に対する哀しみは想像を絶するものだった。
(今の新選組を見て、山南さんはどう感じるだろう……)
考えるうちに、目頭が熱くなってゆくのを感じた。山南が自刃した日、涙が涸れるほど泣いたはずなのに、まだ泣き足りなかったのか。
泣いてはいけない。頭では分かっているのに、涙は勝手に瞳から零れ落ち、頬を伝ってゆく。
と、その時だった。
「倫?」
背中越しに名前を呼ばれた。聞き覚えのある、どこか無気力さを感じる声音。
倫は慌てて着物の袖で涙を拭うと、後ろを振り返った。
「――お前、まさか泣いてた?」
表情ひとつ変えず、声の主である大石が訊ねてくる。
「泣いてなんかいません」
倫は否定するものの、涙の流れた痕は隠しようがない。
大石は小さく眉を顰めると、「別にいいけどさ」と呆れたように言った。
「こんな所で泣いてたら他の隊士も変に思うんじゃない? どうせ泣くなら、誰も見てない所でこっそり泣いたら?」
「――……」
正論だ。腹立たしいが、大石に対して返す言葉が見付からない。
「で、何で泣いてたんだ?」
いつになく真剣な眼差しで訊ねてくる大石に、倫は自然と口を開いた。
「――山南さんのことを、想い出して……。今の新選組のあり方を見たら、あの人はどう思うだろうって……」
「ふうん……」
泣いている理由を訊いてきたわりには反応が薄い。確かにその方が大石らしいが、何となく話したことで損した気分になってしまった。
(もうちょっと、何か言ってくれてもいいじゃない……)
倫が大石を軽く睨むと、今度は口の端を上げた。
「何? もしかして俺に焼き餅でも妬いてほしいの?」
大石の言葉に倫の顔は急激に熱を帯びた。
「そ、そんなつもりじゃ……」
「なら、どんなつもりなんだ?」
「それは……」
大石になおも問い質され、倫は答えに詰まる。それ以前に、この複雑な気持ちをどうやって表現して良いのか倫自身も分かっていなかった。
「しょうがないな」
大石は呟くと、倫の細腕をぐいと掴んだ。
「せっかくだから俺の部屋に来なよ。何もないけどね」
「え、でも……」
「何?」
「このお饅頭、近藤さんと鈴花さんに……」
「そんなの、帰り際にぱぱっと渡せばいいだろ?」
「そういうわけには……、あっ!」
倫の言葉を遮るように、大石は強引に彼女の腕を引く。このふたりの様子を、他の隊士も何事かと遠巻きに見ている。
(何でこんなことに……)
大石に引かれながら、倫はこの先、何事も起こらぬようにと心の中で必死に願った。
大石の部屋は、殺風景と思えるほど物がほとんど見当たらない。
「すっきりしてますね」
倫が当たり障りのない感想を述べると、大石はつまらなそうに「そりゃどうも」と言った。
「俺はごちゃごちゃしているのは嫌いでね。俺は刀と寝床さえあればそれで充分だ」
大石の言葉に倫は思わず苦笑いが浮かぶ。無頓着以前に、はなから刀と人斬り以外には興味がないということか。
「あのさ、突っ立ってないで座れば?」
大石に促され、倫は横に饅頭の包みを置いて正座した。
それにしても、こんな場所に連れ込んで何のつもりだろう。大石とはそれなりに長く付き合っているが、それでも彼の深意は掴みかねる。
「倫」
暫しの沈黙のあと、大石が思わぬことを口にしてきた。
「お前、山南さんが好きだったの?」
倫は目を見開き、呆然と大石を見つめた。
驚きのあまり絶句していると、大石はじれったそうに「どうなんだ?」と答えを催促してくる。
「――山南さんは、好きでした」
やっとの思いで倫が答えると、大石の眉が小さく痙攣した。
だが、倫はそれに気付かぬ振りを装って続けた。
「でも、恋愛対象として見たことは一度たりともありません。山南さんは庵さんと同じで、私の兄であり、父親のような方でしたから……」
言い終えると、部屋の中は再び静寂に包まれた。外から聴こえてくる小鳥の可愛らしい囀りが、唯一の救いであろうか。
「なるほどな」
大石は何かを納得したように独りごちる。
倫は怪訝に思い首を傾げていると、大石は「それなら」と言ってきた。
「お前が好きなのは誰だ?」
またしても突拍子もない質問をされた。いったい、倫に対して何を求めているのか。
「大石さん、そんなことを訊いてどうするんですか?」
倫は今度は逆に訊ねた。
大石は一瞬、目を宙に彷徨わせていたが、すぐに倫へ視線を戻した。そして、倫の顎に手を添えると、くいと上を仰向かせた。
「お前に俺だけを好きだと言わせたいから。それじゃあ駄目かい?」
「なっ、何を……!」
言いかけた言葉は、大石の口付けによって塞がれてしまった。
突然の出来事に、倫は瞠目したままそれを受け止めてしまった。
接吻はほんの短い時間だったと思う。だが、その数秒間も倫には長く感じられた。
唇が離れると、大石はしてやったりと言わんばかりにニヤリと笑った。
「これでもう、倫は俺以外の男のことは考えられなくなったな」
倫の体温は急激に上昇。何も言葉が出ず、ただ、ぼんやりとその場に座り込んでいた。
倫の唇には、大石の熱と痺れるような苦味がしばらく残り続けた。
【初出:2009年3月14日】