京の町は朝から雪が降り続いていた。全く止む気配もなく、夜になると辺りは白銀の世界に包み込まれている。
花柳流道場〈花柳館〉は、島原という辺鄙な場所に道場を構えているため、生憎の天気であろうともこの界隈は賑わっていた。
倫はその様子を、二階の自室からそっと眺めていた。
煌びやかな遊女達、そして、美しい彼女達に対して下心を丸出しにしている男達。
前に乙乃が言っていたが、倫も一歩間違えていれば今頃はあの中の遊女達と同じ立場にあったのだ。
自分の身体を売り、男達を慰める。とても想像出来ない。いや、想像もしたくない。
(でも、私も女なのだから、一度くらいあんな綺麗な格好をしてみたい……)
そんなことを思いながら、小さく溜め息を吐く。
と、その時だった。
賑やかな中にはやや場違いな男がふらりと現れた。
一瞬、人違いかと思った。だが、あの独特な空気を纏うのは、彼以外には考えられない。
倫の足は勝手に動いていた。脇目も振らず、ただ、彼の元へと走った。
「大石さんっ!」
外へ出ると、倫は男の名を叫んでいた。
男――大石は驚きもせず、こちらを振り返る。
「こんな所で何をしているんですか?」
「ずいぶんと無粋なことを訊くねえ」
倫の質問に、大石は顎を擦りながら口の端を上げた。
「夜更けに男がここを訪れる目的といったらひとつしかないだろ?」
「……」
大石の言葉に、倫は言葉を失う。
確かにそうだ。新選組で暗殺を生業としていると言っても大石も男だ。彼だって、時には女達の温もりが欲しいと思うこともあるのだろう。
(――でも……)
倫は複雑な気持ちだった。理解はしているつもりでも、心の中がざわついて仕方がない。
(どうして……)
彼女が俯いたまま黙っていると、不意に彼から忍び笑いが漏れ出した。
「倫、もしかして妬いてる?」
「ちっ、違います!」
図星を指され、倫は慌てて否定する。
「ふーん……」
大石はそう呟き、何も言わなかったが、表情を覗ってみると何か楽しんでいるようにも感じられる。
「まあ、いいや。それよりお前、今は暇?」
突然の質問に、倫はぽかんと口を開けた。
「えっと、何ですか……?」
改めて訊き返す。
「だから、今は暇か、って訊いたんだよ」
「――はあ……。暇と言えば暇、そうじゃないと言えばそうじゃない気も……」
「どっちでもない、か。じゃあ、暇ってことで俺に付き合いなよ」
「えっ? ちょっ……!」
有無を唱えさせる間も与えず、大石は強引に倫の手を引き、雪の上を歩き出した。
どれほど歩き続けただろう。気が付くと、島原の喧騒とは縁がない静かな場所へと辿り着いた。
辺りには何もない。目の前に広がるのは、どこまでも続く雪原だけ。
(何故、こんな場所に……?)
やはり、大石の考えは理解しがたい。
倫に雪を見せたかったのか。それとも、他に意図があってのことか。
「――何を考えてるんですか……?」
倫は大石に疑問を投げかけていた。
「さあ、何だろうねえ」
大石は口許をわずかに歪めながら、答えにならない答えを口にする。
しばらくの間、沈黙が流れた。
夜空からは、ゆっくりと舞い降りる六花。倫は手を差し伸べて、それを受け止めようとする。
しかし、雪の命はあまりにも儚くて、彼女の手の上ですっと消えてなくなってしまった。
突然、淋しさが彼女を襲う。理由は分からない。ただ、何となく、大石がいつか雪と同じように消え去ってしまうのではないかと想ったら――
倫は大石に身を寄せる。彼が生きている事を確かめるためにも、温もりを感じていたかった。
その時、彼女の身体が大石に包まれた。
何を想っているのだろう。抱き締める感触はいつもとどこか違っていた。
「大石さん、ほんとにどうしたんですか……?」
「何が?」
「だって、いつもと違って……、その、優しい感じがするから……」
「たまにはいいだろ? 今日は特別な日なんだからさ」
大石はそう言うと、倫の身体をそっと離す。そして、懐を探り、紙で包まれたものを取り出して彼女へ差し出してきた。
「――私に、ですか……?」
「ここには俺とお前以外誰もいないだろうが」
「そうですけど……」
倫は警戒しつつ、それを受け取る。
「開けて、いいですか……?」
「ああ」
不安とわずかな期待を胸に抱きつつ、包みを開けた。
(――これは……!)
中から現れたのは、美しい装飾が施された小さな櫛だった。
「――何故、これを私に……?」
「言っただろ。今日は特別な日だって、ね」
「特別な、日……?」
倫は意味が分からず、ただ首を傾げていた。
大石は少し考える仕草を見せてから、片頬を上げて笑った。
「つまり、俺と倫はこれから結ばれるのさ。二度と離れられないようにね」
大石の言葉に、倫は一気に固まった。
やはり、この男は危険極まりない。一瞬でも、彼になら、と考えてしまった自分が恨めしく思えた。
倫は唇を噛み締める。
一方、大石はそれを眺めながら声を殺して笑っていた。
「やっぱりお前、面白い女だな」
「よ、よけいなお世話です!」
倫は怒鳴り返したが、それはかえって大石の好奇心を煽る結果となってしまった。
さらに反応を楽しむかのように、大石はにやにやと笑い続けている。
「今日は特に冷え込む。倫だって人肌が恋しいと想ったから、俺に身を委ねてきたんじゃないのか?」
「そ、それは……」
「それに、その櫛は俺なりの約束の証だしね。もし、受け取れないんだったら、今この場に捨ててしまっても構わないよ」
「――出来るわけ、ないじゃないですか……」
倫は櫛を眺めながら、ぽつりと呟いた。
「――悔しいけど、これはずっと大切にさせてもらいます。見るからに高そうですし、もったいないですから」
口ではそう言いつつ、本心では大石からの贈り物を嬉しく想っていた。そして、〈人斬り〉と恐れられる彼が真剣に女物の櫛を選ぶ姿を改めて想像すると、どこか微笑ましい気持ちにもなる。
(そんな姿、大石さんには似合わないけど……)
倫はそう思いながら、再び櫛を髪に包み直す。本当はすぐにでも着けたかったが、まだ彼女には早いような気がしていた。
「しかし、よく降るねえ……」
雪空を仰ぎながら、大石が言う。
「さて、そろそろ戻るか。そのあとは倫をじっくり堪能させてもらうよ」
「……」
倫はそっと溜め息を漏らした。
もう、抵抗する気力も湧かない。そもそも拒絶する気もなかったのだが。
ふたりは並んで歩く。手はしっかりと繋がれ、時折、お互いを確かめ合うように強く握り締める。
夜空からはふたりを包み込むように、ひらひらと雪の花びらが舞い続けていた。
【初出:2007年12月26日】