帰るべき場所

野村利三郎×志月倫


 毎日が賑やかで人が絶えなかった花柳流道場・花柳館。
 三月ほどの間に、辰巳が陸奥を追って去り、跡取り息子の咲彦も憧れの新選組古参幹部の斎藤の元へ行くと言って出て行ってしまった。そして、相馬と野村もまた、咲彦と同様に新選組へと入隊。それとほぼ同時に、よく顔を出していた面々も今では全く訪れて来ることがなくなった。
 閑散としている道場。その壁際に寄りかかりながら、倫はひとりでその場に蹲るように膝を抱えて座っていた。
 何もない道場には、時おり、あの楽しかった日々が幻影として蘇る。
 あんな風に、みんなで笑い合える日は二度と来ないのか。そんなことを考えていたら、胸が締め付けられるように酷く痛んだ。
 今、みんなは自分の知らない場所で戦っている。しかも、平和を誓い合った仲間が、今では敵同士となっているのだ。
 みんな、同じぐらい好きだと思っている。思っているからこそ苦しいのだ。
(もう、たくさん……)
 そう思いながら、倫は顔を伏せる。
 過去を振り返るから辛くなる。ならば、何も見なければ良い。倫は強く願った。

「……ん……倫ちゃん」
 しばらくして、倫は何度も身体を揺さぶられた。
 倫はハッとする。どうやら知らぬ間に眠っていたらしい。
「こんな所で寝ていたら風邪引くよ、倫ちゃん?」
 倫を起こした声の主はそう言うと、苦笑を浮かべながら顔を覗き込んできた。
 倫は驚いて目を見開いた。
 そこにいたのは、ここにいるはずのない男。倫は夢ではないかと思い、再び瞼を閉じてから開いてみる。夢ではなさそうだ。
「――どうして……?」
 倫はやっとのことで口を開いた。
「どうして、って言われてもなあ……」
 目の前の男は、困ったように頭をぽりぽりと掻いている。
「ちょっとこの辺に用があったからついでに寄っただけなんだけど……。迷惑だった?」
 彼の問いに、倫はゆっくりと頭を左右に振った。
「いえ、迷惑だなんてことは……。ただ、まさか野村さんがここへ来るとは考えてもなかったから……」
 正直な気持ちを言うと、野村と呼ばれた男は今度はにっこりと満面の笑みを見せた。
「そっか。二度と来るな、って言われなくて安心したよ」
 野村はそう言うと、そのまま倫の隣に腰を下ろした。
「――倫ちゃん」
 座るなり、野村は普段とは打って変わった静かな口調で言った。
「新選組は、もうじき京を離れることになるかもしれない」
 野村からの突然の言葉に、倫は驚く半面、やっぱり――と思った。
 今、幕府が窮地に陥っているというのは、先代の慈照からも聞いていた。
 世の中はすでに動き始めている。徳川の時代は幕を閉じ、長州や薩摩が中心となり新たな時代が築かれるだろう、と。
 倒幕でも佐幕でもない倫にとっては、そんなことはどうでも良かった。しかし、新時代を築くということは、無駄な血が戦場に流れ、尊い命が次々と奪われてゆくということ。そればかりは、さすがの倫も見過ごすことは出来ない。
「――野村さん」
 倫は野村を真っ直ぐに見つめた。
「私が止めても、やっぱり、行くんですよね……?」
 倫の視線をまともに受けた野村は、唇を強く噛み締めている。どう答えてよいのか――野村はそう言いたげであった。
 だが、だんまりを続けていても埒が明かないと思ったのか、意を決したように「うん」と頷いた。
「俺は、相馬と同じ道を歩んでゆくと決めてるから。あいつは無口で愛想のない奴だけど、俺にとっては誰よりも大切な親友だから。それに、近藤さんや土方さんも、相馬と同じくらい大切な人達だ。相馬達のためなら、俺はこの命を捨ててもいい。そう思ってる」
 野村の決意は固そうだ。
 花柳館にいた頃は、ただの能天気な人間だという印象しかなかったが、相馬と共に新選組に入隊してから、野村はずいぶんと変わった。
(絶対、あの頃の野村さんならこんなことは言わなかった……)
 野村の変わりようは、嬉しくもあり哀しくもある。
 常に明るく、場の空気を盛り上げてくれた野村。だが、今、倫の前にいるのは、以前の野村とは違う、〈新選組の野村利三郎〉であった。
「……んで……」
 不意に、倫の瞳から透明な雫が零れ落ちた。同時に、口から嗚咽が漏れ、止めようにも止められなくなってしまった。
「――倫……」
 野村は倫の名を囁くと、そっと自分の元へ彼女を引き寄せた。
 倫は流されるように野村に身体を預け、「何で……!」を繰り返しながら、やり場のない怒りをぶつけた。
「――ごめんな……」
 野村はそんな倫を包み込みながら言った。
「本当は、倫にも側にいてもらいたい。だけど、そうすると俺は倫ばかりが気になってしまって戦いに集中出来なくなるから……。それに、愛してる人には静かで平和な暮らしをしてほしい。倫のような女の子には、戦場は似合わないから……」
「……んなの、勝手過ぎます……」
「――分かってる。だから未練を残さないよう、最後にこうして逢いに来たんだ」
 野村はそこまで言うと、未だ泣き続ける倫の身体を強く抱き締めた。
「――野村さん……」
 野村の胸の中で、倫は絞り出すような声を出した。
「なら、ひとつだけ、約束してくれませんか……?」
「約束?」
 野村が訝しげに繰り返すと、倫は「ええ」と短く答えた。
「――いいけど? いったい、何を約束すればいいの?」
 倫は涙で濡れた顔を上げると、野村をじっと見つめた。
「――絶対、生きて下さい。無駄死になんて、絶対にしないで! そして、全てが終わったら……」
 倫は、最後の言葉を言うのを躊躇った。冷静になって考えてみると、女から軽々しく口に出来るようなことではない。
 野村は何とも言い難い複雑な表情を浮かべていたが、どうやら、倫の言わんとしていたことは理解したようであった。倫の目尻を自らの親指で拭うと、小さく口許を綻ばせた。
「うん。俺が生き残って、全てが終わったら、必ず倫の元へ帰って来るよ」
 野村はそう言うと、約束の証にと、倫の額にそっと口付けをした。
「約束、したからね」
「はい」
 倫が頷くと、野村は満足そうに微笑んで立ち上がった。
「さて、そろそろ行かないと。本当はひとりで出歩いてはいけないって言われてたのに、こっそり抜け出して来ちゃったんだよね」
「えっ、そうだったんですかっ?」
 野村の言葉に、倫は目を見開いて声を上げた。
(私のために、危険を冒してまで……)
 ここは喜ぶべきところなのであろうか。倫は困惑してしまう。
「大丈夫だよ」
 倫の心配を察したようで、野村は彼女を安心させようと屈み込んで頭を撫でた。
「確かに土方さんにはこってり叱られるだろうけど、それ以上の罰はないと思うから。それに、土方さんだってただの鬼じゃない。ちゃんと話せば分かってくれる人だしね」

 倫と野村は、花柳館の前まで出て来た。
「本当は屯所まで行きたいんですけど……」
 倫が言うと、野村は「別にいいよ」とにっこり笑った。
「それに、今は屯所には近付かない方が無難だ。いや、俺がここに来たこと自体不味いんだけど……」
 ばつが悪そうに頭を掻く野村を見つめながら、倫は思わずクスリと笑ってしまった。
「野村さんなら、いつでも大歓迎ですよ」
「そう? ありがと」
 野村は礼を述べると、今度は真剣な眼差しで倫を見た。
「それじゃあ倫、達者で」
「――ご武運を、お祈りしています」
「――ああ」
 野村は短く答えると、倫に背を向けて歩き出した。
 もう、こちらを振り返らず、ひたすら自分の帰るべき場所へと進んでいる。
(どうか、野村さんに幸せを……)
 野村の背中を見送りながら、倫は心の中で願い続けた。

【初出:2009年4月13日】
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