あの日、僕が目にしたものは、兄――伊東甲子太郎の無残な姿だった。
血の海の中にうつ伏せている兄。そして、その場にいたのは、漆黒の気を纏う男の姿だった。
男は満足そうに笑みを浮かべていた。死神に取り憑かれたような微笑みを。
いや、あの男の存在そのものが死神だ。兄を情け容赦なく斬り捨てただけでなく、藤堂君や服部さんまでも……
恐怖心はなかった。ただ、信じられない想いで三人の遺体を見下ろしていた。そして、湧き上がる怒りと憎しみが僕の中で渦巻いていた。
しかし、僕には感情を表に出すようなことは出来なかった。誰にも心配をかけたくないから、哀しみも含め、全て自分の中に押し留めていたのだ。
苦しくて仕方がなかった。本当は全てを吐き出してしまいたかった。
彼女がいなければ、僕はずっと、殻に閉じ籠ったままだったかもしれない。そして、兄達の後を追うことも厭わなかったと思う。
彼女がいたからこそ、僕は心の底から死を悼むことが出来た。同時に、救われたような気持ちになった。
◆◇◆◇
「三郎さん」
静かな女性の声で、僕ははっとする。
「どうしたんですか? ぼんやりとして……」
彼女――倫は心配そうに僕を見つめる。
「いや、ちょっと昔のことを想い出していただけだよ」
僕は倫に微笑みかけた。
「そうですか……。確かに、色々ありましたものね」
倫はそう言って瞳を閉じる。きっと、僕と同じことを考えているのだろう。
彼女もまた、幾多の命が散る瞬間を目の当たりにしてきたのだ。女性である倫には、あまりにも辛過ぎる現実だったに違いない。
それでも、彼女はずっと僕の側にい続けた。現実から目を背けず、むしろ弱かった僕に檄を飛ばしたほどだ。
最初はおこうさんに恋心を抱いていた僕だったが、いつからか倫こそが僕の唯一の存在だと想えるようになっていた。
そして今は、妻として隣にいる。誰よりも愛おしく、誰よりも大切な存在。
「――倫」
僕は名前を囁きながら、倫の身体を抱き締める。温かくて、柔らかくて、さらに愛しさが込み上げる。
倫もまた、僕に身を委ねてきた。胸に顔を埋めてくる彼女を、強く包み込む。
「――三郎さん……」
胸の中にいる倫が、小さな声で言った。
「私、今、とても幸せです。あなたとこうしていられること。そして、生きていこと。どんなことがあっても、私はあなたの側にいますから……。だから、三郎さんもずっと、私を離さないで下さい」
倫の言葉一つ一つが、僕の心にじんわりと染み入る。
「大丈夫だよ」
幼い子供をあやすように、僕は彼女の髪をそっと撫でた。
「僕は君を離したりしない。君が僕を必要としていてくれているように、僕も君が全てだから。これからの道も決して平坦なものではないけど、それでも精いっぱい生き抜こう」
僕はそう告げると、倫の身体をわずかに離した。
僕をまっすぐに見つめる、澄んだ瞳。
一瞬、躊躇う。だが、彼女を欲する気持ちには勝てず、半ば強引に唇を重ねた。
倫はわずかに驚いていたものの、すんなりと受け入れてくれた。僕の背中に腕を回し、着物を強く握り締める。
時を忘れてしまうほどの長い接吻だった。
しばらくして、互いの唇が離れた。
まだ、倫の余韻が残っている。幸せなのに、何故か物足りなさを感じてしまう。
「ねえ、倫」
俯いている彼女に、僕は言った。
「今日はずっと、君を抱き締めさせてくれる?」
倫は弾かれたように顔を上げる。見開かれた大きな瞳。
しばしの間、沈黙が流れた。
「――抱き締める、だけですか……?」
ふと、倫がぽつりと口にした。
今度は僕が驚く番だった。だが、嫌な気持ちはしない。
僕はふっと口許に笑みを浮かべながら、答えた。
「それは君しだいだよ? 僕は、君が嫌がることはしない。――でも、倫が望むのなら……」
倫は何も言わなかった。ただ、先ほどのように、僕に身を委ねる。それが答えだと言わんばかりに――
そんな彼女の想いに応えるつもりで、僕はまた深く口付けた。
◆◇◆◇
僕が願うのは、君との永遠の幸せ。
年老いても、ずっと、共にあることを――
【初出:2007年12月26日】