庵への想いに気付き始めた倫は、毎日のように不安を抱えていた。
庵は自分のことは全くと言っていいほど語らない。それはまだ良い。しかし、ことあるごとに絹緒を自分の部屋に呼び付けるというのは如何なものだろうか。
絹緒のことは嫌いではない。むしろ、綺麗で優しい彼女には、同性の倫も好感を抱いている。
それなのに、ふたりが一緒にいるのを見ただけで心の中がもやもやとして気分が悪くなる。
(私……、どんどんと嫌な女になっていく……)
深い溜め息を吐きながら、倫は香久夜楼の廊下をとぼとぼと歩いていた。
その時だった。反対側から、絹緒がこちらに向かって歩いて来た。
その腕には三味線が抱かれている。もしかして――いや、もしかしなくても、彼女は庵の部屋へ行く途中なのだろう。
「あら、倫ちゃん?」
倫の目の前まで来た絹緒は、ぴたりと足を止めた。
「どうしたの? 何だか浮かない顔をしているわね……」
心配そうに顔を覗き込んでくる絹緒に対し、倫は露骨に目を逸らした。庵に信頼されている絹緒への嫉妬心がそうさせていた。
「――もしかして、誤解されているのかしら?」
絹緒の言葉に、倫は思わず彼女を凝視した。
「どうして……」
「ああ、やっぱり」
倫の驚いた表情を見て、絹緒は微苦笑を浮かべる。
「ねえ、良かったら、わちきと少し話しましょうか?」
「えっ……?」
絹緒からの予想外の誘いに、倫もさすがに戸惑った。
「で、でも絹緒さん、これから庵さんの部屋に行くのでは……?」
倫がおずおずと訊ねると、絹緒はにっこりとしながら、「いいのよ」と答えた。
「別に急ぎの用事は何もないから。それに、たまには庵さんとよりもあなたとゆっくり話したいわ」
「はあ……」
倫が曖昧に返事をすると、絹緒は踵を返し、ゆったりとした足取りで歩き出した。
(着いて来い、ってことね……)
断る理由は何ひとつないので、倫もまた、黙って絹緒の後に続いた。
着いた場所は、絹緒の部屋だった。
「どうぞ」
絹緒に促され、倫は中へと入った。
初めて訪れた絹緒の部屋。心なしか、女性特有の芳しい匂いが部屋中に広がっている。
「あの……、絹緒さん」
向かい合わせに正座するなり、倫は真っ先に口を開いた。
「いったい、私とどんなお話を……?」
「そうね……」
絹緒は少し考えるような仕草を見せた。
「あなたの、正直な想いが聞きたいわね」
「私の、想い……、ですか……?」
「ええ」
絹緒の言葉に、再び戸惑いが生じた。
彼女はいったい、何を考えているのか。そして何より、倫の気持ちを聞いてどうするつもりなのか。考えていることが、全く分からない。
倫が答えに窮していると、絹緒がゆったりとした口調で話し始めた。
「ねえ、倫ちゃん。あなたはもう少し、自分の気持ちに素直になった方がいいわ。わちきが言っても説得力がないかもしれないけど……。でも、あなたは素敵なものをたくさん持ってる。庵さんも、今は自分のことで頭がいっぱいだけど、いつかきっと、あなただけを見てくれる日が来るわ。わちきはね、庵さんとあなたに、絶対に幸せになってもらいたいから……」
そこまで言うと、絹緒は微笑みを浮かべた。自分が言った言葉に嘘はない、とはっきりと表情で訴えている。
「――絹緒さん……」
俯きながら、倫は搾り出すような声を出した。
「本当に……、私は、庵さんに相応しいのでしょうか……?」
そう訊ねた倫に、絹緒ははっきりと「ええ」と答えた。
「あの人の本当の支えになれるのは、倫ちゃんを置いて他にいないもの。必ず、庵さんはあなたを……」
絹緒はそう言うと、倫の髪を優しく撫でた。
絹緒の部屋を後にした倫は、その足で庵の部屋へと向かった。絹緒に励まされたのもあるが、何よりも、彼女自身が庵と向き合って話したいと思ったからだった。
「庵さん、失礼します」
庵の部屋の前まで来ると、倫は外から挨拶をして障子を開けた。
庵は倫の顔を見るなり、怪訝そうに顔を顰めた。
「何だ? お前を呼んだ憶えはないが……?」
やはり、絹緒が来るものだと思っていたのだろう。
「私が絹緒さんの代わりに来たのですが……。いけませんでしたか?」
平静を装いながら答えたものの、内心は心臓が破裂しそうなほど高鳴っていた。
そんな倫を、庵はしばらく睨んでいたが、やがて諦めたように溜め息をひとつ漏らした。
「別に悪いとは言っていないが……。分かった。入れ」
「はい。失礼します」
庵の許可が下り、倫は部屋の中へと足を踏み入れる。
ここは絹緒の部屋と違い、煙草の匂いが染み付いている。
「庵さん、吸い過ぎは身体に毒ですよ?」
つい、口を突いてしまった。
案の定、庵はあからさまに不機嫌な顔を見せた。
「そんなことはお前に言われなくても分かっている」
「す、すみません……」
庵の迫力に負け、倫はすっかり萎縮してしまった。やはり、倫では庵に到底適わない。
改めて、庵と対等に接する絹緒を尊敬してしまう。
「それで」
今しがた、倫に注意されたばかりの煙草に火を点けながら、庵が訊ねてきた。
「倫は俺に何の用なんだ?」
「何の用……、ですか……?」
「それを俺が訊いている」
「――すみません……」
再び、庵に謝罪を述べてしまう。
正直なところ、何をどう話していいのか、まだ、頭の中で整理出来ていなかったのだった。
(ど、どうしたら……)
必死で言葉を探す。だが、遠回しに訊こうと思っても、どうしても浮かばない。
庵は何も言わず、倫の言葉を待っている。
倫はしばらく考えた後、思いきって口を開いた。
「庵さん、あなたにとって、私は何なのでしょうか?」
恥ずかしいと思いつつ、直球で訊ねてしまった。
庵はちらりと倫を見つめ、煙草の煙を口からふうと吐き出した。
「俺にとって、お前は妹だ。それは、今も昔も、そしてこれからも変わらない。お前は俺をどう想っているのかは知らないが、変な期待はしない方が良い」
予想通りの答えだった。
衝撃的なことは何もない。それなのに、心の中は空洞が開いたようにすかすかだった。
『必ず、庵さんはあなたを……』
先ほどの絹緒の言葉が、ふと脳裏を掠めた。
絹緒はああ言っていたが、本当に庵が自分だけを見つめてくれる日が来るのだろうかと疑念が湧く。
(私の気持ちは、やっぱり……)
倫は両手を握り締め、唇を強く噛んだ。
庵を愛している。だが、どんなに想い続けても、庵には負担にしかならない。
絹緒もきっと、分かっていたのかもしれない。彼女は優しいから、倫を傷付けまいと、あんなことを言ったのだろう。
「――ごめんなさい……」
倫はそれだけを言うのがやっとだった。溢れ出そうになる涙を必死に押さえ、庵の部屋を出ようとした。
と、その時だった。
「倫」
庵が倫を呼び止めた。
倫は振り返りもせず、その場に止まった。
「俺は、お前を幸せに出来るほど立派な男ではない。だが、お前に相応しい男が現れるまで、俺はお前の側にいよう」
これは、庵の精いっぱいの優しさだろう。
倫は小さく頷くと、そのまま庵の部屋を後にした。
◆◇◆◇
私にとっての幸せは、愛する人が側にいること。
振り向いてもらえるかなんて、今は分からない。
でも、少しでも庵さんの中に私という存在がいてくれるのであれば、私はただ、それだけで――
【初出:2008年8月22日】