激動の時代を生き抜き、倫は平穏な日々を送っていた。つい最近まで血生臭い争いが絶えなかったことが、今となっては信じられないほどだ。
だが、嬉しさの半面、犠牲となった者達を想うとそれを手放しで喜ぶことも出来ない。
その中には、かつて花柳館で共に過ごした仲間もいる。
そんな彼らの犠牲と引き換えに手に入れた幸せ。これで本当に良かったのだろうかと、ふと気付くと自問自答している。
「倫」
不意に名前を呼ばれ、倫ははっとして声をかけてきた男を見る。
「何をぼんやりしているんだ?」
男は怪訝そうに訊ねてくる。
「――すみません……」
昔からの癖で、咄嗟に謝罪が口を突く。
男もまた昔と変わらず、そんな倫を見つめながら眉を顰めた。
この男の名前は庵。かつては京の島原にあった〈花柳館〉の二代目宗家で、倫とは師弟の関係であり、また、兄妹同然の間柄だった。
だが、倫にとっての庵はそれ以上の存在だった。
突き放すような態度を取りつつも、決して倫を手放そうとしなかった庵。自分の母親に想いを寄せていたことを知ってからも、気持ちは決して変わらなかった。
そして、長い歳月をかけてふたりは結ばれた。もちろん、愛する庵と毎日が過ごせるのは嬉しい。それなのに、心のどこかで不安を感じている。
「――倫、何か気になることでもあるのか?」
眉間の皺はそのままに、庵は再び訊ねる。
倫は庵から視線を逸らそうと俯く。
幸せを幸せと感じられない。そんな自分があまりにも惨めで、まともに庵を見つめられない。
ふたりの間に、しばしの沈黙が流れる。
倫は緊張のあまり、息をこくりと飲み込むと、静まり返った空間に小さく響いた。
やがて、庵がひとつ大きな溜め息を吐いた。
「倫、言いたいことがあるのなら言ってみろ。お前に隠しことをされるのはあまり良い気分にはならない」
「すみませ……」
「いちいち謝るな。俺はお前に、言いたいことを言えと言っているだけだ」
「――はい……」
説教じみた物言いに、倫はただ項垂れる。ここまで言われてしまっては、正直に口にするしかない。
倫は小さく深呼吸すると、恐る恐る顔を上げた。
「――庵さん、私は庵さんと結ばれて幸せです。でも、幸せなのに、心から喜べないんです。――怖くて、不安で……。私の幸せの代価はあまりにも大き過ぎました。それなのに、私だけが幸せであって良いのか……。私は、時々考えてしまうんです……」
倫が言い終えてからも、庵は表情ひとつ変えず彼女を見つめていた。昔に比べると庵も表情が豊かになってきたが、それでも、時々何を考えているのか分からなくなる。
庵を見つめ返しながら、倫の鼓動は速度を増してゆく。この場から、即座に飛び出してしまいたい衝動にすら駆られてしまった。
「――俺では不満か?」
予想だにしない言葉が庵の口から紡がれ、倫は驚きを隠せずに口を小さく開けて目を見開いた。
「倫、どうなんだ?」
呆然としたままの倫に焦れたように、庵は返答を催促してくる。
倫はゆっくりと首を振る。
「不満は、ないです……」
「――そうか」
もう少し突き込まれるかと思ったが、庵は思いのほかあっさりと引き下がった。
(庵さんの考えることは、やっぱりまだ分からないわ……)
そう思いながら倫が首を傾げていると、庵は「そんなに考えるな」と微苦笑を浮かべた。
「俺は別に、お前に普通に気になったことを訊いてみただけだ。考えてみると、倫にはずっと辛い想いばかりさせてきた。男とか女とか関係なく、お前には一人の人間として強く育ってほしいと思っていたからな。だが、そのせいでお前は嫌な現実も散々見てしまった。倫は優しいから、人の死を客観的に捉えることが出来なかったのだろう。特に身近な者の死は相当堪えていたというのも、俺自身も気付いていた。気付いていながら、俺はあえてお前に茨の道を進めさせてしまったのだ。今さら何を言うのかと思われるだろうが、俺は、倫を哀しませてしまったことをすまないと思っている」
庵はそこまで言うと、倫をそっと自分の下へと引き寄せてきた。
温かくて、どこか懐かしさを感じさせる。もしかしたら、自分が物心付く前にも、こうして抱き締めてくれたことがあったのかもしれないと倫は思った。
倫を包み込みながら、庵は続けた。
「これからはもう、苦しむ必要はない。亡くなった者達も、倫を決して恨んではいない。――むしろ、俺の方が恨まれて当然だからな。だが、どうしようもなく辛くなった時は、いつでもお前を抱き締めてやろう。俺も、お前とこうしていると、生きていて良かったと心から想えるから……」
庵の言葉ひとつひとつが、緩やかに流れる川のように胸に注がれてゆく。
幸せを幸せと感じられなかった自分。それはきっと、庵がどこか手の届かない場所へと行ってしまうのではないかという不安の表れだったのかもしれない。
だが、庵の本心を知り、胸につかえていた不安は少しずつ消えていた。倫はそっと、庵の背中に腕を回した。庵をもっと近くに感じようと、倫はその腕に力を籠めた。
「庵さん、私はずっと、あなたの側にいてもいいんですよね……?」
倫の問いに、庵は躊躇うことなく「当たり前だ」と答えた。
「どんなことがあろうとも、お前はずっと俺から離れるな。――いや。離れることは決して許さない。亡くなった者達に報いるためにも、俺達はもっと幸せになろう」
「はい」
倫は微笑みながら、庵の温かな胸に顔を埋めた。
【初出:2009年1月4日】