逃がさない

 初めて逢った時は、彼女をただの部下としてしか見ていなかった。それがいつの日かふたりで飲みに行くようになり、身体の関係まで持つようになった。
 最初は酔った勢いだったのだと互いに思った。だが、彼女と距離を置こうと思えば思うほど、彼女が堪らなく恋しくなる。
 彼女と逢瀬を交わすたび、妻を裏切ることは重々承知だった。それでも、俺は彼女の温もりが欲しかった。
 妻は本当に良く出来た女だと思う。家事は完璧にこなすし、どれほど俺が疲れて帰って来ても、嫌な顔ひとつ見せず出迎えてくれる。
 そんな勿体ないほどの妻を持ちながら、どこかで不満を抱えているのだろうか。
 ただ、はっきり言えるのは、俺は妻よりも彼女に甘えることが出来るということだ。

 ◆◇◆◇

 暗闇の中で、雨音が静かに響き渡る。彼女と行為を重ねていた間も雨は降っていたが、未だにやんでいないらしい。
 何も纏っていない半身を起こすと、隣では肩から毛布を被った彼女が安らかな寝息を立てている。
 セックスをしている時はこっちを振り回すほどの悪女となるくせに、寝顔は無防備で可愛らしい。だが、どちらの彼女も俺は好きだ。
 俺は頬にかかった彼女の長い髪を指先で掬う。楽しい夢でも見ているのか、時おり、口元に幸せそうな笑みを湛える。
「呑気なもんだな……」
 俺は小さく嘆息を漏らすと、わずかに弧を描いている彼女の唇に俺のそれを重ね合わせた。最初は触れる程度に、けれども、徐々に深さを増し、無理矢理歯を割って舌を差し入れる。
「……ん……」
 彼女が小さく呻いた。だが、俺は口付けをやめなかった。
 彼女の口角から透明なものが零れ落ちるほどキスをくり返すと、彼女がうっすらと瞼を開いた。
 そこでようやく、俺は唇を離した。
「おはよう」
 口の端を上げながら彼女に挨拶する。
 彼女は寝惚け眼で俺を見上げている。
「――もう、朝……?」
「いや、まだ真夜中」
「そう……」
 彼女は短く答え、俺の頬に手を伸ばしてきた。そして、俺の頬をそっと撫でる。
 俺の中で何かが弾けた。先ほどとは打って変わり、貪るような乱暴なキスをし、彼女を抱いた。
 仕掛けたのは彼女。だが、彼女は俺から逃れようと身じろぎする。
 そのたびに俺は彼女を自分の元へ引き寄せた。
「簡単には逃がしてやらない」
 彼女の耳元で囁き、欲望を満たしては吐き出す。
 彼女からは甘い吐息が漏れる。
 その声を聴きながら、俺は何度も昇りつめた。
 妻のことはすでに頭の中から消えていた。それほど、俺は彼女に囚われ続けた。

【End】